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【掌編】『ナウ・アンド・ゼン』
昔からそうだけど、時々自分の誕生日を忘れていることがある。
一日の勤めを終えて郊外へ向かう電車に乗り込むと、いつものようにドア脇に立ってただ通り過ぎる街を眺める。一瞬、暗い映画館にいてスクリーンを眺めているような錯覚にとらわれる。そして、目の前を通り過ぎた桜並木のピンク色の景色が、あの頃の自分に引き戻すスイッチになった。
『NOW & THEN』
そのアルバムはいつも行くレコード屋の壁面を飾るアルバムラックの一番目立つ場所に長い間飾られていた。
真っ赤なスポーツカーがフレームいっぱいに描かれる印象的なジャケットは長岡秀星のアートワークだ。絵の中の二人は車のルーフによって陽光が遮られているため、よく見ないとカーペンター兄妹であることはわからない。
その日も朝、家を出るまでラジオを流していた。きこえてきたカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」をついつい最後まで聴いたおかげで遅刻しそうになる。最近のお気に入りの曲だ。自転車のペダルを懸命に漕いだおかげで教室に滑り込んだ時にはちょっと吐きそうなほど息が切れていた。いつもぎりぎりだから、ほんの二、三分が勝負の分かれ目になるのだ。
額の汗をタオルで拭っていると後ろの席のサトコが駆け込んできた。こいつはバンド仲間でギターとボーカル担当。相当急いだらしく息も絶え絶えといったところだ。
「うっす」
「ハァ、ハァ……、ちょっと待って」
「わたしさ...…、ハァ、ハァ……、いつも通りにさ、ハァ……」
「ちょっと、落ち着いてからしゃべんなよ」
「ラジオの曲をさ、ハァ……」
「わかった、それで? 」
なんか身に覚えのある話になってきた。
「聴いてたらさ、うっかり時間オーバーになってて」
「それって、もしかして...…」
「「カーペンターズ!!」」
「なーんだ」
一瞬、表情が曇るサトコにすぐさま応酬する。
「それは、こっちのセリフ」
「そういやレコード屋にLP、飾ってあんじゃん?」
「今、金欠。もし買ったら貸してよね」
それから間もなく母親から、小遣いの前借と誕生日のプレゼントを兼ねてレコード代をせしめることに成功する。わくわくで見上げたレコード屋の壁面にはもう『ナウ・アンド・ゼン』はなかった。念のためレコードを立てて並べてある通常のラックを繰ってみるが無駄だった。
次の日、少し浮かない気分だった僕にサトコは後ろの席から背中に指でなにやら字を描きはじめた。縦に長い線を引かれたときはいつもながら反射的にのけぞってしまう。
『お、め、で、と・・』
振り返ると彼女の笑顔があった。
「誕生日でしょ。あとでロッカーを見よ」
『NOW & THEN』
今もそうだけど、時々自分の誕生日を忘れていることがある。
「おかえり」
「ああ、はらへったよぅ」
上着を脱ぐと彼女はやってきて背中に指で何か描き始めた。
『お、め、で・・』
くすぐったくて、のけぞりながら振り返る。
さっき思い出したのと同じあの笑顔があった。
(1194文字)
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以上、こちらへの応募作品です。
よろしくお願いいたします。