カヤの責任-超人観について

カヤは結局何がしたかったのだろうか。答えは、「超人になってキヴォトスを正常化する」になるのだろう。
しかし、カヤの「超人」とは一体なんだろうか。この問いに答えることができないなら、結局カヤの目的はわからないのだが、これがはっきりしない。数少ない明白な点は、カヤにとって連邦生徒会長と超人が等号で結ばれていることだ。そこで、カヤが「責任」をどのように捉えているかという観点から、カヤの目的について論じたいと思う。
なお、私個人としては、カルバノグ2章はホッブズのリヴァイアサンとスピノザの国家論の相剋が裏テーマなのではないかと考えているし、その中でホッブズ側に立つものとしてカヤが描かれているのではないかと考えているが、そういった哲学の引用はなるべく控えて、内在的に論じたいと思う。

カヤの責任観

カヤにとっても、責任は重要である。この点でカヤは常識的である。カヤは責任を取らなくて良いとは一度も言っていない。むしろ、先生に連邦生徒会の名の下で活動することを要請したシーンから明らかなように、責任を負うことは当然と考えている。しかし、カヤの責任観は先生やカンナとは全然異なる。

カヤは明確に先生とは異なる責任観を持っている。カヤにとって、責任は先生の言うような「『責任を負う』というのは……(中略)……楽しいこと」ではあり得ない。それだからこそ、先生に責任を負うことを提案したのである。しかし、実のところ、この一件からこそ、カヤの責任観の最大の特徴が理解できる。

私は、カヤの先生への提案は文字通り読まれるべきだと考えている。つまりカヤは、実のところシャーレの活動を制約しようとしていたのではない。確かに、カルバノグ1章ではシャーレ廃絶もユキノとカヤの目標だった。しかし、裏切ってきたジェネラルとも手を組めるカヤにとって、シャーレと手を組むことなど大した問題ではないだろう。
もちろん、これが先生への思いやりではないことは言うまでもない(だからこそコンビニ流通の妨害という当てつけを行った)が、しかし単なる権力欲と理解されるべきではないだろう。
カヤは、責任を連邦生徒会がまとめて背負うことを当然視している。

この点は、ブルーアーカイブにおいて極めて特異な主張であると言わねばならない。カンナの責任観と対比してみればそれは明確である。カンナは、自分の選択の責任を背負うことができるし、そうしなくてはならないと考えている。それに対してカヤは、そもそも個人が責任を背負うことそれ自体が許せない。
要するに、カヤの責任観はカヤの超人観と深く結びついているのである。超人支配を求めることと責任の集中を志向することとはカヤにとって等値である。

このように考えることによってだけ、カヤのリンに対する要求や、連邦生徒会長へのあの女呼ばわりの意味も理解される。つまりカヤはリンや連邦生徒会長がキヴォトスの全責任を背負おうとしないこと(これはカンナの責任観と表裏一体である)が許せないのである。
それだからこそ、カヤはリンに一度は強権的に振舞うことを提案せざるを得ない。リンがそうなってくれるのなら、カヤは自分が連邦生徒会長である必要はないのである。キヴォトスには超人=連邦生徒会長が必要だが、それが誰であるかはとりあえず問題ではない。SRT閉鎖が決まった時に、カヤはユキノに連邦生徒会を襲撃するよう命令した。そして、行政委員会内での多数派工作(物理)を命令した。しかし、いずれにしても、リンを直接狙ってはいない。おそらく、カヤはリンにハッパをかけようとしていたのではないか。
連邦生徒会長についても、それ故に尊敬の念と「あの女」呼ばわりが両立する。どれだけ個人的に嫌いでありあるいは無能であると思っていても、連邦生徒会長であったことについては尊敬せざるを得ない。

カヤの責任-超人観はなぜ生まれたのか? 脅威の意味

カヤの責任-超人観は特異であることを前節で確認した。ところで、なぜこのような責任-超人観が生まれたのか。別の言い方をすれば、なぜカヤは個人が責任を負うことそれ自体が許せないのか。
先述した通り、カヤは単に権力欲のゆえに個人が責任を負うことを認められないのではない。それどころか、責任を背負うことはそれによって責任を負えなくなる個々人にとって良いことであると真剣に考えている。つまり、カヤは責任の重みを恐ろしく高く見積もっているのである。
しかし、単に責任の重みを知っているだけなら、それが超人支配と結びつくことはないだろう。アズサは、「全ては虚しい、それでも」という人間であった。そこにおいて、「自分の人生に責任を負う」と先生が語るときの「責任」は重いものである。しかし、これには政治への繋がりがない。責任の重みの実感が超人による支配と繋がるには、政治への突進、あるいは確信が必要である。

もう一度カヤの言葉を振り返ろう。
「キヴォトスは、超人(ルビ:連邦生徒会長)によって指揮されるべきなのです」
ここにあるのは、超人によって指揮されなければ、キヴォトスが存在できないという危機感、あるいはパスカルの言葉を借りれば「無限の空間の永遠の沈黙」に対する恐怖である、と考えたらどうであろうか。

実際、カヤは子ウサギタウンを爆破することを、「脅威を示(す)」と表現している。つまり、連邦生徒会として爆破するのではなく、そのような脅威が存在していることを示そうとしているのである。それ故、この陰謀を暴くことはこの陰謀を無力化することにはつながらない。このことをミヤコとユキノは知っていればこそ、爆破スイッチが-この陰謀の証拠ではなく-双方の目標になった。
そしておそらく、そのような脅威-今流行りの言葉でいうなら実存的脅威(因みに、カヤが爆破計画を立てたエピソードの題である「衝撃と畏怖」はイラク戦争時の米軍の戦術の名前である)-をカヤは感じている。子ウサギタウン爆破は、かつての連邦生徒会にあって今の連邦生徒会にないものが何かをカヤなりに考えた結果生まれたアイデアだった。カヤ自身、そのような脅威を感じていればこそ、連邦生徒会長-あの女-に従っていたのではないか。

この危機感は両義的である。キヴォトスが、存在しないかもしれないという恐怖と、超人がいればキヴォトスは存在できるという希望が同時に存在している。キヴォトスが存在できるかどうか分からないが故に、キヴォトスが存在できる可能性があるのである。シュトラウスのホッブズ解釈を借りれば、「人間は、人間性のための宇宙的な支えが存在しないからこそ、主権者となりうる。」
カヤは、「全ては虚しい、それでも」という人間ではない。「全ては虚しい、それ故に」という人間である。全ては虚しいかもしれないが、キヴォトスは存在できる可能性がある。なぜなら、キヴォトスが今存在しているということはとりあえず自明の事実だからである。存在できる可能性のないものが存在しているということは有り得ない。それ故に、「キヴォトスのため」は(他の全てのもののためとは違って)客観的に存在しているものへの献身であり、それ故正義と冠することができる。
しかし、カヤはキヴォトスが今存在しているという事実が「とりあえず自明」でしかないということを忘れることができない。だからこそ、個人が責任を負うということが許せない。個人が好き勝手に責任を負い出したら、キヴォトスは分裂し、キヴォトスの存在は「とりあえず自明」でさえなくなってしまうかもしれないからである。そこで、超人=連邦生徒会長が全ての責任を負わなくてはならない。そうすることで、全ての行為が連邦生徒会(長)の名の下に行われなくてはならない。
このカヤの認識を端的に表すのは、先生に「迷惑をかけた生徒たちに、きちんと謝ってあげて」と言われても、「だ、誰に謝りましょうか……?リン行政官……?」と個人の名を挙げることしかできないことである。リンを通じてしか、生徒たちを認識できない。
結局、カヤが求める超人統治のあるべき姿は、「犯罪は一件も許さない」という発言に集約されている。厳罰主義その他の犯罪者に責任を取らせることは、二次的な重要性しか持たないのである。個々人が己の責任を生み出す行為、すなわち犯罪それ自体がカヤは許せないのだ。

カヤはどのような脅威を感じていたのか?

なぜカヤは超人=連邦生徒会長による全ての責任を負う統治を望むのかについて前節で説明した。しかし、まだ説明できていないことがある。なぜカヤはそのような脅威を感じているのか。
もちろん、これは仮説的にしか語れないことである。しかし、手がかりは存在する。上述の責任-超人観は、ユキノも相当部分を共有しているように見える。
「武器は自ら判断しないからこそ、価値がある」というユキノの価値観と、カヤの責任-超人観は共鳴している。カヤと同じく、ユキノもまた、責任の重みを痛感しているのである。
これがカヤの影響であるとは言えない。なぜならば、Rabbit小隊に敗れた後も、ユキノは「私たちは、元から自分たちの背負える責任より大きな力を振るうように設計された組織だった」「私たちのように背負いきれない責任と直面したら」と語っている。ユキノとカヤは、生徒に背負えない責任が存在している。という認識を共有している。ユキノとカヤの最大の違いは、カヤは(無謀にも)その責任を背負おうとしている点である。
ユキノがカヤに強く出ることができないのは、そのためだろう。ベアトリーチェはアリウスを騙していたが、カヤはユキノを騙していない。ベアトリーチェは和解などあり得ないとサオリに語ったが、ユキノにいつになったらSRT学園に帰れるのかと問われても、カヤは堂々と、それは今大切な問題ではないと答えることができる。カヤはSRTを復活させることを拒んでいるわけではない。ジェネラルを相手にする時同様、後回しにしているだけである。
ユキノとカヤがかかる共通の認識を持つに至ったのはなぜなのか?時系列から考えてみよう。まず、一年生のA.N.T.I.O.C.H爆弾の事件の際にはまだそう考えてはいなかったのだろう。端的にユキノはその夢を「甘い夢」と表現している。
他方、連邦生徒会襲撃の際には既にそのような認識に至っていたのではないか。カルバノグ2章では、結局連邦生徒会襲撃の動機については語られなかった。この襲撃が確実に自分の首を絞めることは予見できそうなものであることからすると、私は先にカヤは連邦生徒会襲撃でリンにハッパをかけようとしたのではないかと推測したが、ユキノもそのような動機を持っていたのではないか。

とはいえ、これ以上の推測はできないし、ここまでの推測もかなり怪しい。カルバノグ3章を首を長くして待つばかりである。

結び

しかし、結局カヤとユキノについて語れることはこれぐらいであるし、これとて全然信用性は無い。今度のイロハとミユのwピックアップが謎だが、雷帝とSRTが絡んでカルバノグ3章という観測をTwitterで見かけた。その時はなんとも思わなかったが、今こうしてこのNoteを書くと、それもありかもしれないと思う。Fox小隊とカヤの掘り下げを待っている。


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