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企業の社会的責任は利益を増やすこと-ミルトン・フリードマンの投げかけた問い-

サステナビリティと経営やCSRに携わる人にとってどこかで必ずに出会う難問として、「企業の社会的責任は利益を増やすこと」というテーゼが存在します。

このテーゼは、ノーベル経済学賞を受賞した新自由主義を代表する偉大な経済学者とされるミルトン・フリードマンがニューヨークタイムズに寄稿した記事によって主張されたものであり、企業の社会定責任やサステナビリティと経営、ステークホルダー理論と経営を分析する学術論文において、持論を展開するための前置きとしてしばしば言及されるため、企業の社会的責任について興味のある方にとっては賛成するかはともかく、必読の記事となります。

記事としては比較的短いので、原文を読むことをおすすめしますが、彼の主張はざっくり要約すると以下の通りです。

主張
近年(当時は1970年代)ビジネスは利益を追求するだけではなく、社会的目的も推進するべきだという議論が現れているが、ビジネスを通じて社会的目的を推進しようとする考え方は間違っている。企業の社会的責任は利益を増やすことである。

第一の理由
前提として、企業は法的なフィクションに過ぎず、個々の法的な主体に対して法的な責任を負うことはあっても、社会に対して責任を負うということはあり得ず、社会に対して責任を負うのは人間である。

第二の理由
企業経営者は、その企業を所有する株主の代理人であり、企業経営者は株主に対して責任を負っており、その責任は株主の利益を高めることである。

第三の理由
企業が社会的責任を負っているということは、企業経営者は、一般的な社会的利益のためにお金を使用する必要がある。しかし、そのお金は本来であれば、株主に対するリターンとして、また、最終的に税金として国家に収めるべきものであったはずであり、国家はその分税収が減ってしまい、社会的公共的な取り組みに対して使用される財源が、その企業の活動によって消費されてしまう。本来社会的公共的な取り組みは民主主義に基づく正統性のある国家が行うべきであるところ、企業の社会的責任として社会貢献を求めるのであれば、企業が民主主義のプロセスを省略して、自らにとって好ましい社会的公共的な取り組みを行なってしまうことになるため、民主主義社会にとって許されない。企業経営者も一人の人間であり、公共的な責任を担いたいという気持ちは否定できないが、そのような責任を果たす行動は、代理人としてではなく、本人として行動するべきである。

フリードマンの記事は、感情的な表現も多々見受けられるものの、一見合理的なものであり、説得的でもあります。特に一企業が公共政策的活動を政府に代替することの理論的な問題点を明らかにしている点で、評価されることにも首肯できます。しかし、皮肉にも1970年代以降のアメリカでは、エンロン事件、ワールドコム事件等の数多の企業不正事件が発生し、ついには2008年にリーマンショックを迎えることになり、アメリカ経済の永遠の繁栄は夢物語であったことが明らかとなりました。

もちろんフリードマンの記事が発表された当時から企業の社会的責任について喧々諤々の議論が繰り広げられていたことは間違い無いですが、近年はフリードマンの考え方を乗り越えて、企業の社会的責任が存在することを前提に、いかにして企業の社会的責任に関する理論的枠組みを形成することができるのか、という議論が主流になっているようです。

今後企業の社会的責任に関する理論や最近流行りのサステナビリティ経営についてどのような考え方が表れているのか見ていこうと思いますが、その前提として、次回はフリードマンの考え方がイデオロギーの観点からだけでなく、理論的にも誤っていることを説いた論文を紹介します。




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