1970年の現代史②

運動会からメーデーへ

 もう60年以上前なので暗算や勘算の対象からは外れる。1962年@_s37から1968年@_s43までの或る年の小学校の運動会、紅組・白組用に先生が応援歌を作ってくれた。迚も覚え易いメロディで、歌詞は殆ど忘れてしまったが、音楽のイメージは卒業後も音感の片隅に残った。それから どれくらい経ったのか、1971年@_s46から1974年@_s49までの (高校生だった) 或る年の5月1日、学校の先生達が屋外集会し合唱していたのが 応援歌のメロディだった。今度の歌詞は忘れがたかった。聞け 万国の労働者、轟き渡るメーデーの。このメロディには 明治期に遡る起源がある。

軍歌と寮歌

▷ 1899 小楠公 (作曲 永井建子)
 鼓笛喇叭軍歌実用新譜 掲載@_m32 (出版)
 (註) 本曲譜は七五調にて作りたる長編の軍歌にして未だ曲なきものには此句節にて謡はしむるの作意なれば爰には小楠公の一編を藉り其名稱となす (軍歌集の曲譜と歌詞にある永井の但し書)
▷ 1901 アムール川の流血や (作曲 栗林宇一)
 一高東寮 第十一回 紀念祭 寮歌@_m34 (発表)
 (註) 作曲者栗林宇一氏は 軍歌など二、三の既成曲の組合せで作ったと語っておられる (1992年10月発行 向陵に掲載の傍証記事)

 演奏家 (歌手) の立場から明治・大正・昭和初期の各種歌謡を研究/演奏する藍川由美 (1956−) の調査で 2009年以降は 次の史順が 公知の事実になった (文化往来欄 2009年10月02日付 日本経済新聞)。

 永井建子 (1865−1940 74歳没)は 陸軍戸山学校 軍楽隊 第06代楽長、陸軍一等楽長 (陸軍軍楽大尉)を務めた音楽家 (陸軍軍人)。軍歌制作の汎用曲として小楠公を作曲した (鼓笛喇叭軍歌実用新譜 1899年に掲載。歌詞は 佐藤雄治 (碌々庵居士) 編 明治新体詩歌選 (1887年) に掲載の新体詩 小楠公を詠ずるの詩を原詞として流用した。新体詩は西欧詩をモデルに日本語の新しい詩形を模索する試み。小楠公は南北朝時代の武将 楠木正行 (生年不詳−1348) で 作者名不詳の新体詩は その故事を七五調で歌っている (父の楠木正成 (1294−1346)が大楠公)。

 永井制作の譜曲ほかを基に栗林宇一が作曲したのが アムール川の流血や。旧制 第一高等学校 東寮が通例行事として開催していた紀念祭 (1901年 第11回) で発表した寮歌。塩田環の作詞 (栗林、塩田ともに当時は旧制 第一高等学校の現役生徒だった)。歌詞は義和団の乱 (1899−1901) の最中 ロシア軍がロシア領内の中国人居留地江東六十四屯を襲撃した同時代の事件を歌った内容。

 ほぼ同様の両曲の作曲者が永井/栗林のどちらか 2009年以前 1976年以降は 遺族同士の話し合いで栗林作曲で決着していた (1976年05月01日付 読売新聞)。1901年以降の経緯を確認する。

 永井の但し書通り流用と推定するのは 歩兵の本領 (歩兵の歌)。陸軍中央幼年学校 第10期 加藤明勝の作詞で、同校の百日祭で発表 (1911年@_m44)。一方、日露戦争開戦直後 (1904−0211@_m37) に旧制 第一高等学校で開催した紀元節奉祝集会で披露した征露歌 ウラルの彼方は青木得三の作詞で、これは栗林作曲 (アムール川) の流用 。石原和三郎の詞作をベースに乙骨三郎が作詞した尋常小学唱歌 浦島太郎は 栗林作曲の流用かもしれない (1911年@_m44)。(お金目的ではないので日本音楽著作権協会の登録状況は参照しない)

 明治期以降も旧制 第一高等学校の寮歌は特に教育関係に果てしもない普及力があり、嗚呼玉杯調で または アムール調で の指定だけで全国各地の学校で校歌・応援歌ほかのクローンが増殖していった。

そして 革命歌へ

 豊穣の女神マイアに供物を捧げ祀る古代ローマの祭ほか 夏季の豊穣を予祝する春の祭りはキリスト教を超えて更に遡る土着の習慣としてヨーロッパ各地に五月祭が伝承している。英国では メイ フェスティヴァル、メイ フェア、メイ デイと呼び、これが労働者の祭典 メーデーの起源になった。
 最初のメーデーは 1886年05月01日@_m19 米国シカゴ市を中心に合衆国カナダ職能労働組合連盟✣が8時間労働制を要求して統一ストライキを行ったのが起源 (✣ 同年 アメリカ労働総同盟 AFL として設立)。AFL初代会長 サミュエル ゴンパース (1850−1925) は第二インターナショナル 創立大会 (1889年@_m22 パリ)で 労働者の国際的連帯としてデモを行う事を要請 これが決議され、1890年@_m23は米国だけでなくヨーロッパ諸国で労働者組織が第1回国際メーデーを実行、毎年5月1日は全世界労働者の日となった。

 日本では 1920年05月02日(日)@_t09上野公園で (現在の東京都台東区) 大日本労働総同盟友愛会が第1回メーデーを開催。凡そ1万人の労働者が八時間労働制の実施、失業の防止、最低賃金法の制定などを訴えた。翌年から05月01日に毎年実施、参加人数も増えていったが、1935年@_s10の第16回を最後に中断する。
 翌1936年@_s11は二・二六事件で戒厳令が敷かれた後、同年03月19日付に内務省警保局が通牒を発し、同年03月24日にメーデー開催は禁止になった。 この年は04月27日に小規模ながら全国で様々な形の集会やデモが開催されたが、翌1937年@_s12から1945年まで日中戦争激化などの理由で開催はなかった。
 メーデーの再開は戦後11年ぶりの第17回。1946年05月01日は盛大に食糧メーデー/飯米獲得人民大会が開催。東京 宮城前広場に50万人、全国で100万人が集会。05月12日には 米よこせを叫ぶ市民が宮城内に入り、05月同19日には 食糧メーデーが25万人を集めて開催、民主人民政府の樹立を決議した。

 聞け万国の労働者の歌い出しで知られるメーデー歌は 1922年05月01日@_t11に東京 芝浦で開催の第3回メーデーで発表、以降のメーデーで行進歌等として歌唱されるようになった。歌詞は当時 池貝鉄工所の従業員 労働組合員だった大場勇 (当時22歳)。付曲には旧 第一高等学校 寮歌 (アムール川の流血や) を流用、このメロディは数年前に永井が作曲した小楠公まで遡る (作詞者は或る時期まで秋田雨雀 (秋田徳三 1883−1962 79歳没)@_m16としたが、後に訂正になった)。

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