歌詩へ肉迫 浅川マキ
最初から紋切型だが、浅川マキの音楽にはジャンルが無い。本人はディスコグラフィから外した歌謡曲のほか、ゴスペル、ブルーズ、ジャズ、フォークソング、英国ロック、R&B、その他、外延が果てしもない。ジャンルが無いと云うと普通は何でもかんでも喰い散らかして収拾がつかなくなるのだが、浅川の場合は詩を求心力にして圧倒的な纏まりがあり、浅川マキと云うジャンルになる。
つい最近まで浅川マキの音楽はLP第5音盤(1973年)までしか知らなかった。不幸な事に1972年発売の第3音盤、1974年発売の第6音盤(ともにライブ収録)すら知らず、そこから半世紀が過ぎてしまった。だから、浅川マキ=ブルーズ。勘違いにもならない。
浅川のディスコグラフィを曲単位で順に眺めていって、ふと気付くのはLP第3音盤(1972年)辺りから音盤の9割近くのクレジット(作詞・作曲)には殆ど全て浅川が載っている点。とくに歌詩(言葉)に関しては作詩・日本語詩の形で、音像全体の基本設計に関わっている。というよりは、浅川歌唱の音源の言葉は浅川自身が自ら制作している。これは極めてフォークソングに近く、それを遥かに超えてしまっている。
ふたつの音源連続
そこで音源連続をふたつ集成してみた(厳密でもなく、包括的でもない)。
ひとつは浅川の日本語詩でブルーズ、ジャズに属する音源を集め、原曲の発生順に集成する。因みに第1曲目はピアノソロ伴奏のマイ マンで、最終曲はセンチメンタル ジャーニ。おまけはアンサンブル伴奏のマイ マン。
もうひとつは(主に英語)原語で歌唱した音源と、ブルーズ、ジャズ以外の音源を集め、発生順に集成する。因みに第1曲目は紀伊國屋ホールで収録の朝日樓で、最終曲はゴビンダ。おまけは花園神社で収録の朝日のあたる家。
蛇足しておくと、マイ マンは1920年に上演開始の(フランス語)ジャズ レヴュ(タイトルはモノム)の挿入曲で、英米の英語世界でも1920年代に流行、とくに米国では1928年12月公開のモノクロ映画が決定的なヒットになった。
ひとつ目の音源連続で終盤近く、あの男が死んだらを歌った英国人 Aボウリは同曲録音の2週間後にドイツ空軍の落下傘爆弾で被災死(ロンドン 1941年。歌詞中のあの人はヒトラの事)。センチメンタル ジャーニは米英の復員兵士の間で非公式に第二次世界大戦からの帰省のテーマ曲だった(1945年)。
また、もうひとつの音源連続最後のゴビンダはGハリスン制作(1971年、資料によっては作曲)。朝日樓/朝日のあたる家については下記参照。
1930s 関連資料 口承から音源へ
1969 関連資料 朝日樓(高田渡の場合)
1971 関連資料 改題、朝日樓(浅川マキの場合)
1980s 関連資料 絶唱(ちあきなおみの場合)
1971 朝日樓/朝日のあたる家
で、判った事。浅川は単なる歌手ではなく、音源(音盤とライブ)の細部・末端まで制作した。とくに歌の言葉、作詩・日本語詩は偶たま歌に添えられる歌詞ではなく、それ自体が歌の根幹である詩、音楽を伴う詩、歌詩をめざした。歌詩の第一開発が朝日樓/朝日のあたる家と推定する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?