6.穴
一番古い記憶はたしか2歳のころ。
向こうに梅の木が一本うわってる、烈風に揺さぶられてはガタガタ鳴る、風を遮る機能もないガラス戸のついた長屋。
なにがあったのかは覚えてない。
ひたすら怒りと哀しみの中で、自分の口におでんを詰め込んでいた。
ごちそうだったおでんを。
そして窒息して救急車で運ばれた。
生きるか死ぬかの境目だったらしい。
目一杯に「詰め込む」こと
目一杯に「満たす」こと
自分の中の「穴」を埋めるための代償行為だったのかもしれない。
人は20年かけて大人へと成長する。
自意識の芽生えが2歳なら、22歳で大人としての「穴」への欲望を得た。
【追補】
中学校の半ばまでは、うちはそこそこ貧しかった。
服はいつもお下がりの古服で一年間着たきり、肉はあまり食べた記憶がない。
家族で何かをお祝いすることは一切なかった。
季節のイベントも、誕生日も、入学祝いも。
あとで母に聞いたことがある、結婚式もしなかったそうだ。
しなかったんじゃない、というより贅沢だから「させてもらえなかった」
一族で一人「正しさ」から逃げて都会に行った叔父から、「これは翡翠だよ」というまるきり輝きの鈍い緑の指輪を父は買取り、後に母へ結婚指輪として戯れに贈った。
母はその場で投げ捨て、ふすまに穴が空いた。
その叔父はのちに泡(バブル)を自分の穴に詰め込もうとして、ただの泡なのに消えるその場から詰め込んで、今でも消えてしまった泡を追っている。
昔から父はあまり物をもたなかった。
どうしようもない欲求不満の解消は母を殴ることだった。
今も昔も、眠っている時にうなされ涙を流す姿を何度も見た。
母は昔ほどには泣かない。
代わりに憤怒の表情で「正しい」議員たちを罵ることに喜びを得ている。
目の前のわずかな花と動物の世話と父のための食事に集中している。
なにか、やっぱどっか満たされてなかったんか。
「なにか」とは「穴」
いくら詰め込もうとしても詰め込んだその場から奪われてしまう。
だったらぽっかり空いていたほうがいっそスッキリする。
満たされない「穴」を受け入れて生きる。
そんな人生もある。