欲望

俺は32歳で本格的なニチョデビューをした。

都会で会ったゲイは軽い雰囲気で共産党シンパを名乗る人が多かった。
それを聞いて???と頭が疑問だらけになった。
彼らは恋愛、消費を人生の第一目標として、どっぷり資本主義の享楽に浸りまくってるのに。

今思えば「遅れてきた左翼」世代どころか、自分のほうが「戦後のまま取り残された左翼世界」からタイムスリップしてきた人間だった。
アッと驚く小野田ショーイである。

共産党員であることは無欲清貧であること。
資本主義の恩恵を受ける者は共産党員の資格はない。
戦争をくぐり抜け、戦後まもなくから共産党員として活動してきた叔父たちからはそう教わってきた。
大半が死に絶えたが、現在では80代90代の叔父たちから。

読むべき本は灰谷健次郎と住井すゑ。
漫画はまともなのは「はだしのゲン」だけ。
絵画はいわさきちひろ。

金儲け主義の流行音楽は聴く価値がない。
クラシックも望ましくない。
なぜなら西洋の貴族たちが作り出した文化だから。
唯一ベートーヴェンだけは望ましい。
貧困と障害の中で戦い抜いたから。

農業は素晴らしい。
農作物を生み出すだけで人を搾取しない。
だから農夫はこの世で最も清い。

これが俺が出会ってきた共産党シンパ。
少なくとも叔父たちはそんな主張だった。
そして資本主義を肯定する、欲望のままに生きる人間を品性下劣として叩いてきた。
なもんで冒頭の???だったわけである。

俺はよく叔父たちの言うことを聞かず「欲望のままに生きている」と言われた。

義理で習わせたピアノを「欲望のままに」継続したいとごねる。
推奨した本以外のものを図書館で「欲望のままに」こっそり読み漁る。
不遜にも本家筋を立てず「欲望のままに」良い大学に進学してしまう。

わりあい従順に育って、高校受験の時は志望校のランクを落として本家筋に譲り、あまり物を欲しがらない。
それでも「欲望のままに」生きていてると自省を促された。
当時はその度に得体のしれない罪悪感でいっぱいになった。

よくよく考えてみると、理不尽だよね…
今の俺からすると、叔父たちは欲望の暴走が起きてたんだと思う。
「自分は欲望を抑えて生きている。」
「お互いに無欲清貧であれば世界は分け合える。」
「だからお前も欲望を抑えろ。」と。
そんなことを続けているうちに、自分の欲望を見つめるヒマもなく、欲望のコントロール方法も学べず、他者の欲望ばかりを目にしては叩く、際限のない欲望の自粛警察になっていたんだと思う。


社会運動に関わってる共産党シンパでありながら物欲を、性欲を、欲望を否定しない。
恋愛や消費、資本主義の活動を肯定する。
冒頭のゲイたちを見てどこか胸がすくような思いもあった。
共産党を取り巻く世界は変わったんだな、と。
共産党支持者であることを世間に知られれば迫害される、公安に目をつけられる、だから沈黙をつらぬけ。という世界から来た人間としては。
ずいぶん時代遅れだったけどw


叔父たちの言い分の中にこんなものがあった。
製造業も建設業も望ましくない。
なぜなら大企業の下請けとして搾取に加担しているから。
その雇い主は奴隷商人と同じ。

そう言って、製造業を、建設業を叩いた。
共産党シンパでありながら生活の糧のために建設業に携わるという違反をした父も、母も、自分も。
随分と自己批判を促された。
金の亡者と罵られながら。
資本主義の奴隷と罵られながら。
欲望を生み出す汚い手先とでも言われんばかりに。


先日のTwitterでの一件。
そんなことを思い出した。
資本主義を謳歌する共産党シンパのゲイを見て以来忘れていたこと。
あとで平田某の年齢を知って驚いた。
旧世代の共産党員の叔父たちどころかその息子である俺の従兄弟たちよりも若い。
50代の「若い」世代の口から叔父たちのような言葉が出るとは。


最近に90を越す叔父の一人が亡くなり、初めて家を訪れたことがある。
分家筋の末端には近寄らせなかった本家筋の家。
思想の中心、無欲清貧の館。
立派な建物だった。
ギター、オーディオ、外国車、舶来の酒やタバコ、高級ブランドの衣服。
そういえば日本蔑視とともに海外礼賛だった。
それらは建設業や製造業が生み出したもの。
恥じ入るように隠され、未使用のものも多く、乱雑に積み上げられたその数々。
「抑圧された欲望の暴走」というイメージが浮かんだ。


叔父は戦後から平成にかけてどんな思いで演説をしていたのだろう。
こっそり資本主義に囲まれながら。
相手にはそれら全てを放棄することが正しいと訴えながら。
苛烈な欲望の否定は、どこか後ろめたさの現れだったんじゃないかと思う。

今Netflixの「愛の不時着」にハマってる。
韓国(南町)の人たちも、北朝鮮の人たちも、どの人もめちゃくちゃ愛おしい。
そうかそうか、しゃべる炊飯器、みんな欲しいもんねw
南町じゃあ肉が毎日食えるなんてビックリだよ!
ネトゲにハマるリさんとウンドンが可愛すぎるw

資本主義の韓国側。
財閥一族のユン・セリだって幸せに満ちた人生じゃない。
資本と欲望の狂気に翻弄されている。

でも「好きなものは好き」
欲望がかち合うなら、お互いにすり合わせをして、妥協点を見つけてゆけば良い。
欲望の自粛警察になってネガティブさで人を抑えつけるよりもずっと良い。

自分の欲望を素直に見つめられない人はいつの間にか欲望が暴走する。
こっそり隠れて欲望を解消する癖がつく。
後ろめたさでより人に過激に辛く当たり始める。
特に欲望を素直にさらけ出す屈託ない人たちを標的にして。
同じく愛おしいけれど、登場人物のなかで唯一不幸だったチョのように。

【追記】
「製造業」に対しての全文を読んだ。
そうそう、東京の某一流国立大を出た叔父もこんな感じだった。
京都の某一流国立大を出た叔父も。

『建設業を営むということは規模の大小に関わらず結局は大企業に隷属しているのです』
批難を批難すると「真意を理解していない」と十の言葉を費やして説明する。
こちらが十の言葉を丁寧に聞き、同じく十の言葉で反論すると反応がなく、しばらく経って後日に百の言葉で帰ってくる。
百の言葉の論拠となるデータの羅列を読み上げ続ける。

表向きは優しく傾聴の姿勢を取る。
子どもの俺の言葉にもじっと黙って聞きメモに取る。
安易に結論をつけない。
にこやかに余裕を持って慈愛の表情で聴く。
とても人道的で平等だ。

後日、別の場所に一人呼ばれ「真意」を説明される。
いかに君の考えが浅いか、を込めながら。
母や父にもそれぞれ別の機会に呼び出し、それぞれ一人づつ同様に「真意」を説明される。
十の言葉が百に、百の言葉が千に増えながら。
圧倒的な知識量と難解(に聞こえる)用語をことさら迂遠に駆使して。

手法は間違ってはいない。
とても丁寧で科学的で知性的だ。
後日、一流大を出た権威ある叔父を前に恥をかいたと母は泣き、父は俺を殴る。
高学歴の叔父の権威を前に、血族の恥を持ち出して萎縮する構図。
高潔な叔父はただ沈黙するばかり。
悪態も暴力も説得も、目上の人への「失礼」を察した目下の人間が行う。
そんなことが繰り返されてきた。

【追記の追記】
今の俺の気持ちは「がっかり」なんだと思う。

左翼を信じていた。
共産党を信じていた。

子ども時代に「戦犯の孫」として黙って殴られたのは、殴った相手が「俺よりもっと辛い人たち」だったから。
生まれてから異国で迫害され続け、日本に「帰国」しても言葉も話せず、仕事にも就けず、雑な国策で翻弄されてきた人たち。
30数年沈黙を貫いて耐えたのは彼ら彼女らのため。

中国残留日本人。

彼ら彼女らは左翼の反戦の倫理で言えば「侵略に、戦争犯罪に加担した人たち」
左翼でも救うどころか罵る人も居た。
去年からメディアで取り上げられるようになったのは嬉しかった。
現在ではもう80代90代を越す人たちも多く、あまりにも遅すぎたが。

全ての悲しみに寄り添うのは無理だ。
身体は一つしかないし、見張る目も、つなぐ腕の数も有限。
だから左翼が悲しみの一つを見逃しても仕方ない。

…と思っていた。
自己実現と自己の幸福に邁進する、同年代の左翼運動家たちを眺めながら。
途中で道を譲った俺と違って、左翼家庭の中で一番丁寧に育てられ、大切に教育を施され、良い大学に入った左翼運動の後継者。
恵まれた知識階級に育ったピカピカの共産党二世、三世。
それでもなお「自分の不幸」を社会に八つ当たりし、周りに当たり散らす姿を見ながら。

その結果があの左翼文化人の「製造業」の扱いなんだろう。
目線が高いから自分より下の者は目に入らない。
自分より多くのものを持つ上の者ばかりが妬ましい。
価値の高い自分にはより多くのものが与えられるべきだ。


それ以外の「真意」なんてあるのだろうか。


俺は「喜捨」が好きだ。
幼少期からどこかで「奪われた」感覚を持つ俺は、これから来る「奪われた」子に回るように「喜捨」をする。
理由なんて無い。
自分には多少余分な物だから。
金銭的にふんだんに余裕があるわけじゃない。
少しづつ貯めたものを気が向いた時に「喜捨」する。
見返りも感謝もいらない。
強いて言えば「ときめいた」「嬉しい」と感じたものに回す。
喜んで捨てる。
金でもそれ以外でも。

今の左翼の人たちにはそれすら出来るのだろうか。
清貧を気取って欲望を隠して資本主義の社会を批判する人たちに。
そして製造業は資本主義の権化なのだろう。
「真意」を聞くのはもう飽きた。