3.みんなでお茶を(母の日に)
萩尾望都の漫画「みんなでお茶を」
超能力者狩りの話。
異質な者は迫害されるということ。
でも全体の雰囲気はスラップスティックコメディ。
のほほんと幸せに満ちている。
とても好きだ。
読んだのは24歳のときだった。
24歳の時にはTと出会った。
Tとは大学で同性愛者サークルを作った。
彼とのつながりの中で、沢山の「嬉しい」ものがみつかった。
沢山の「嬉しい」人に出会った。
沢山の「嬉しい」本を読んだ。
その嬉しさはどこか虚ろだった子ども時代の隙間を埋めてくれた。
子どもの時には虚しさと沈黙の中で沢山の人を見た。
Ecce homo(この人を見よ)
「戦争の、侵略の責任を取れ!」と正しき運動家たちに糾弾される、反論のための言葉を持たない、異国から母国に戻った人たちと、とり残されて遅れて母国に戻った人たちを見た。
Ecce homo(この人を見よ)
「それは汚い金なのです。」と正しき叔父たちに責め続けられる、貧しい村の人のために長として政府に援助を求め奔走した祖父を見た。
Ecce homo(この人を見よ)
子どものために、生活の糧として企業の下請を営むことを「資本主義の奴隷!」と批難され、正しき人たちの前で髪を引きずり回される母を見た。
Ecce homo(この人を見よ)
どの人を?
…解らない。
口を開けば「正しき」人に裁かれる。
それは今でも変わらない。
駅前に歌と太鼓で集い、清くて貧しい生活を謳い、理性的で穏やかな言葉を使う、電脳の世界まで嗅ぎつけて裁き続ける、痛みのない人生を送った、無垢で純粋な初老の良識人たちに。
そしてそれを先導した「正しき」長老たち、つまり叔父たちもまだくたばっていない。
反論すればするほど、興奮した目をキラキラ輝かせて、自分の正しさをかけて、「裁き」が間違っていない(いなかった)ことを証明するために正義の言葉の拳を振り上げる。
その老いた拳の振り下ろす先。
反論した強い者を逸れて、その横の弱い存在に向かう。
その一つが血族で女で嫁である母。
人を幸福にする思想が人を虐げ不幸にする。
あまりにも理不尽だ。
我慢の限界に達した俺は時たま反論した。
そして、殴られ、罵られ、その代償として色々なものを取り上げられた。
それでも挫けなかった。
でも気がつくと正義の裁きは次第に俺の横にばかり向かうようになった、俺の見えない所で、俺が関われないように。
だから、長老たちがくたばるまで、守りたい者を看取るまで、せめて俺は口を閉ざすことを、その昔に決めたことを思い出した。
俺の代わりに正義の名のもと裁かれ続けた者のために。
母のために。
ともあれ。
この「みんなでお茶を」ではイエス・キリストは失敗だったとさっくり描かれる。
He was despised and rejected of men;
a man of sorrows and acquainted with grief.
彼の辛さは二千年の時空を越えて胸を打つ。
この世で最も辛い人を見よう。
でも、いつしか「誰が一番正しく辛いか」対決になったように思う。
漫画のラストでは、迫害と拒絶の精霊(超能力者)狩りを逃れて一安心のダーナは「今がよければすべてよし 明日のことまで心配しなくていいの」と娘のチェシーに諭してお茶を入れる。
チェシーは納得しない、「ほんとうにみんなで幸福なお茶のむにはどうしたらいいの?」と自問自答する。
でも、時間をゆっくりかけて答えを見つけよう、と。
まずは「さあ みんなでお茶を幸せに 今日も あしたも それから ずっと」と。
辛い現状を忘れるのも一つの道だ。
辛さに真剣に向き合うのも大切だ。
でも、辛さにばかり目を向けて、自分を取り巻く世界が見えなくなったら意味がない。
俺はいま目の前の「みんなでお茶を幸せに」飲むことは否定せずに、「ほんとうにみんなで幸福なお茶のむにはどうしたらいいの?」を考えてゆきたい。
【追補】
叔父にも、父にも、「痛み」があった。
「痛み」を忘れるために「正しい」教えにすがった。
だから俺は彼らを嫌いだけど好きだ。
好きだけど嫌いだ。
戦争の、間接的にでも誰かを死に至らしめる「痛み」は生易しくない。
でも戦争はあまりにも酷い「貧しさ」から起きた。
異国を切り拓くことも「貧しさ」をなんとかするために始まった。
そこには一時の喜びがあった。
逡巡してしまう。
前に進めなくなってしまう。
だからまずは迷いながら目の前の「お茶」を飲む。
日々の習慣の、なんの変哲もない「お茶」を。