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【ブルーコメッツ①】20代が語るGS

ブルーコメッツといえば「ブルー・シャトウ」のイメージが強いのではないでしょうか。ブルー・シャトウは1967年のレコード大賞に選ばれ、GSではワイルドワンズとブルーコメッツだけがNHKに出れたとことや、紅白歌合戦に出れたこともあり同時代の人からの認知度も高いと思います。


ブルーコメッツのルーツは米軍キャンプ

ブルーコメッツというのは1950年代に米軍キャンプで演奏するバンドだったようです。要はインストゥルメンタル専門のバッグバンドだというわけです。ですからメンバーも全然違い、一時期には尾藤イサオが所属していたりもしました。(詳しくはwikiを見ていただければ)
ブルーコメッツ最盛期のメンバーであるジャッキー吉川、井上忠夫(大輔)、高橋健二、小田啓義、三原綱木の5人が揃うのは1965年のことでした。彼らは譜面を読める超実力派のメンバーで構成されています。

実はブルーコメッツの他にも米軍キャンプで演奏するバンドはたくさんあり、クレイジーキャッツもその系譜だったりします。クレイジーキャッツのコミック要素は進駐軍を喜ばせるために磨かれたものだったのですね。あと意外かもしれませんがクレイジーキャッツの演奏技術はかなり高く当時のトップレベルです。谷啓はトランペット奏者として日本で3本の指に入るくらいだとか…。ガチョーン(ズーム拡大縮小を繰り返して揺れる)。

また、ブルーコメッツ加入以前の三原綱木さんはブルーコメッツ傘下にあたる「ファイヤーボール」からの引き抜きという形でブルーコメッツに参加することになったようです。
他にGSではゴールデン・カップスもその系譜に当たります。
アメリカの音楽を知る米兵たちの前で演奏することで演奏力は相当磨かれたと思われます。米軍キャンプは戦後日本にロックやジャズ文化でかなり大きな影響を与えたと言えるでしょう。

歌うバンドの始まり

先程も述べましたが、ブルーコメッツは本来歌うバンドではなかったのです。というか当時のバンドは「演奏する人達」であり、歌おうとするグループはなかったのです。

ジャッキー吉川「ブルコメはね、歌おうなんてのはまず考えてなかったんですよ。最初ブルー・コメッツはね、とりあえず日本で一番うまい「伴奏バンド」になりたかったんです。」

http://www.bluecomets.jp/Radio/TBSradio02.html

ではいつからいつから歌い始めることになったのでしょうか?

尾藤イサオ遅刻説

当時ボーカルとして人気が出ていた尾藤イサオ(2024年現在も現役で活躍中!)が地方公演を行った際、電車に乗り遅れてしまい、バックバンドであるブルーコメッツ単体で演奏することになってしまいました。
仕方なくボーカル無しで演奏するも、観客からは「お前らが歌えよー!」と野次が…。仕方なく歌い始めたところ好評だったため歌うバンドを始めてみようとなったようです。

これはYouTubeに上がっていた「驚きももの木20世紀」ブルーコメッツ物語という番組でも紹介されており本人出演だったので正しいでしょう。

井上忠夫がバックバンドで飽きたらなくなった説

井上忠夫といえばブルーコメッツの楽曲はもちろん、その後も様々な有名な楽曲を作っています。フィンガー5の「学園天国」(高校野球の応援歌で今でも使われていますね)、ラッツ&スターの「め組のひと」が有名です。あと個人的にウルトラマンガイアが好きなんですがそのEDで使われていた「Beat on Dream on」が好きですね。今聞き返してみるとたしかにブルーコメッツっぽさというか井上大輔っぽさがあります。要するに作曲の才能に溢れた人物だったわけです。

1965年12月31日、ザ・ピーナッツのバックで『第16回NHK紅白歌合戦』に初出演を果たす。ザ・ピーナッツの二人は7回目の出場で、チャック・ベリーの楽曲“ロックンロール・ミュージック”(Rock and Roll Music)を演奏した。しかし、バックバンドとしての紅白出演に飽き足らなくなった井上が、「バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ。」とバンドの方向性を見直す進言をし、『ザ・ヒットパレード』のディレクター椙山浩一(後の作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至ったという。

https://ameblo.jp/inoueno2000/entry-12763564839.html

作曲もできて歌も歌えた井上大輔が歌えるバンドを目指したのは必然だったのでしょう。

青い瞳1966

さて、いよいよ歌えるバンドとしての土台が完成したブルーコメッツですが、レコードを出さなければ"知る人ぞ知る日本一のバックバンド"のままで人気物にはなれません。

ここも現在と感覚が全く違うのですが、当時のレコード業界は「邦楽部門」と「洋楽部門」に分かれていました。名前のイメージで言うと邦楽を取り扱うか洋楽を取り扱うかの違いしかないように感じますね。実際のところ邦楽部門は「職業作家」の作った曲を「専属歌手」が歌いそれをレコーディングして販売するというモデルだったのです。
ブルーコメッツがやろうとしているのは自分たちで音楽を作り自分たちで歌うというものなので「邦楽部門」からではなく「洋楽部門」からの発売となりました。余談ですが同様の経緯で洋楽部門から売り出されたのがエミージャクソンの「涙の太陽」です。この曲をGSの先祖と考える人もいるようです。作詞はR.H.Riversという人ですが、これはなんと湯川れい子さんです。レイコ・ホット・リバースというペンネームの略だそうですがお洒落ですね。

デビューするきっかけといってもですね、我々はインストゥルメンタル、バンド演奏ならいいけども歌うことはダメだよ、と言われましてね、そういうときにすぎやまこういち先生とか、橋本淳先生がいろいろ考えてくださいまして、コロンビアにはレーベルがもう1つあるよってね。CBSコロムビア洋楽レーベルがあるじゃないか!
-ブルーコメッツ 小田啓義-

https://www.youtube.com/watch?v=FKtQ7_YKs-c

そんなわけでCBSコロムビア=「洋楽部門」から曲を出すことになったブルコメの第一弾は「青い瞳」です。当初は日本語の歌詞で出すつもりだったようですが、洋楽部門から出すので歌詞も洋楽にしなければならないとレコード会社に言われたため英語版で出すことになったようです。
邦楽レコードが330円、洋楽は370円(1ドル360円の時代で輸入盤が高いため)という不利な価格設定であったにもかかわらず10万枚もの大ヒットとなりました。そして英語版発売から4か月後の1966年7月10日に出した日本語版は50万枚ものセールスを記録することになりました。

コラム:GS第一号はいったい誰の曲?

追記予定です。別の記事にするかもしれません。

コラム:1966年7月は日本ロック史の伝説だ!

追記予定です。別の記事にするかもしれません。

やっぱりバックバンドなの?ブルーコメッツシングル7枚目まで

ではブルーコメッツのシングルの歴史を見ていきましょう。
実は第一弾のデビュー曲は「サンダーボール/ミスター・キス・キス・バン・バン」(1966.2.10)というインストゥルメンタル物です。007の劇中曲のアレンジ物を2曲シングルで出していました。これら2曲の発売に至る経緯は語られている媒体は発見できていません。そのためか青い瞳をデビュー曲として扱っている媒体も少なくありません。

続く2枚目が青い瞳です。B面は「青い彗星」というインストゥルメンタル物です。これは結構いい曲なので聞いたことのない人は是非。

3枚目は「愛の終わりに/バラ色のドレス」(1966.4.20)ですが、なんとこちらは2曲ともインストゥルメンタル物です!ここまで6曲作ってきてボーカル入りは1曲しかないのは衝撃的です。

4枚目は青い瞳の日本語版とB面の「マリナによせて」ようやく2枚目のボーカル物が来ましたが、新曲というよりセルフカバーです。マリナに寄せては小田啓義さんの生後間もない愛娘が亡くなってしまったため作られた曲です。マイナーかもしれませんがすごくいい曲です。明るい曲調ですがどこか哀愁が漂っていて雰囲気がたまりませんね。ちなみにこの曲から日本コロムビアレーベルです。

5枚目は「青い渚/星に祈りを」(1966.9.1)です。ついに両面ボーカル入りが出ました!星に祈りをはとても優しい曲調です。

6枚目は「ジングルベル/ブルークリスマス」(1966.11.1)です。これも両面インストゥルメンタルですが、よくアレンジされていて聴きごたえがあります。ロック×クリスマスというのが珍しいですね。ジャッキー吉川圧巻のドラムにも注目!

7枚目は「何処へ/センチメンタルシティ」(1966.12.5)です。何処へは同名のドラマのOPとして使われており、最終話には「ブルー・スターズ」という架空のグループ名でドラマ出演も果たしています。
センチメンタルシティは歌詞に出てくる「バックィン トゥ ザ タウン」は湯川れい子に叩かれていたという逸話?がありますが両方とも趣があるいい曲です。フォーク系の曲になるんでしょうが、どんな曲歌わせても高いレベルで仕上げてくるのがブルコメの凄さだと思います。
ちなみにセンチメンタルシティ(すぎやまこういち作曲)の人気が出たので両A面として発売されました。さすがすぎやまこういち!

ここまで14曲中8曲がインストゥルメンタル物で構成されています。レコード会社との関係などもあるのでしょうが、ブルコメの魅力と言えばこのインストゥルメンタルといえるでしょう。それが初期のブルーコメッツを支えていた物であり、彼らの原点なんだと思います。
ちなみにヒットしたのは青い瞳とセンチメンタルシティになります。

コラム:ブルーコメッツ 対 湯川れい子

しかし、本当に歌謡曲とポピュラーの中間を行く新しい言葉が生まれたのか、古い歌謡曲をポピュラー的なよそおいでお手軽にシュガーコートしただけではないのか、というのが湯川れい子さんの疑問である。
「ブルコメに限らず、和製ポピュラーにはどうして英語の歌詞が入るのかしら。センチメンタルシティの中の文句にしてもバックイントゥザタウンはゴ―バック…でなければ英語にならないでしょう。」
それはいいとしても、英語を入れることで”これは歌謡曲じゃないんだよ。ポピュラーなんだよ”という意図がありありと見えるのね。もっと我慢できないのは、日本語まで外国語の発声法で歌っていること。”バラノキャオリガキュルスィクテー”(※ブルーシャトウ「バラの香りが苦しくて」)なんていうのを聞くと、日本語は日本語としてちゃんと発音して、そのうえでブルコメサウンドは存在しえないのか、っていいたくなるの

週間明星67.7.16

↑音楽評論家の湯川れい子のブルコメに対する論評です。なかなか強烈に批判していますね。それに対してブルコメは全員激怒!みたいなテイストの記事です。歌い方や歌詞作りに対する手厳しい批判があったからこそブルコメの楽曲はより洗練されていったのかもしれませんね。

なお、ブルコメと湯川れい子さんは仲が悪いということはなく、小田啓義さんと湯川れい子さんは「Do you know」という曲を後に作っています。また、湯川さんはツイッター上でもブルコメをかなりリスペクトされている発言を残されています。
週刊誌がおもしろおかしく記事に仕立てたというのが真実でしょう。現在で言う炎上商法に近いかもしれませんね。

まとめ

とりあえずnoteを作成していると5000文字まで行ってしまいました。このまま書き続けてもよいのですが、いったん区切りがいいのでここでブルコメ①は終わりにします。
ブルコメ①ではグループの誕生からレコードデビューを掘り下げていきましたが、ブルコメ②では第九回レコード大賞受賞曲であるブルーシャトウ、幻のオリコン1位北国の二人などのブルコメ最盛期を取り上げたいと思います。
ブルコメ③では解散後のメンバーの活動について掘り下げてブルーコメッツとは一体何だったのかということに迫れればと思います。それではここまで読んでくださり誠にありがとうございます。また次の記事でお会いしましょう!

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