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野菜ジュースを持った「やまんば」

母は、毎朝野菜ジュースをブレンダーで作る人だった。これは、母方の祖父のルーティンの一つだった。毎朝、野菜や果物をブレンダーを回し、現代でいうスムージーを毎朝呑んで健康管理をしていたのだ。

 母の野菜ジュースづくりは、ある日突然始まった。きっかけは覚えていない。しかし、それ以来、味を度外視して、「栄養なら何でも食べさせる」動きが活発化してきたのは事実だ。

 それ以来、まずいものを食べると「健康食品」なんだと脳がバグる。味の表現に「まずい→健康そうな味がする」という表現におき替えられるようになってきた。

 ジュースにして美味しいのは、「キャベツ」や「人参」だ。トマトを入れると、そのままトマトジュースになるが、ジュースが緑の葉っぱを中心に作られたときほど、甘くておいしい。ジュースが赤いとトマトジュースで、トマトジュースがあまり好きではなかった私には、きつい飲み物だった。

 朝、家を出る前に既に出来上がっていたらいいのだが、なぜか母は、ギリギリに作り上げる。こちらは、飲みたくないので、母がギリギリに起きてきて、髪もぼさぼさの中、台所に入っている隙に、音を立てずに靴を履き、こっそりと家を出るのである。

 家からエレベータまでは、通路を渡らないとエレベータホールへは出られないのだが、この通路の途中で見つかってしまうと、確実につかまってしまう。運よくエレベータホールまで辿り着けば、10階にエレベータが来るまでの時間に見つからなければ無事に逃走完了である。

 しかし、この踊り場でよく見つかった。大抵、運悪く、エレベータホールに到着すると、エレベータが下へ降りている最中。1階で止まり、再び10階へ上がってくるのを待たなければならない。

 エレベータ側に向いてエレベータを待っていると、突然、私の背後に、髪がぼさぼさの「やまんば」の影がエレベータのドアのガラスに反射して見える。その手には、毒々しいまでの野菜ジュースが私の命を狙っている。やまんば自体の現れ方も怖いが、それよりも、その現場をご近所さんに見られるのが恥ずかしい。その羞恥の地獄へ突き落されるのならば、屈服してジュースを飲み干す。

 「エレベータホールで待っているから捕まるのだ」と思った私は、家のドアをこっそりと開けて家を出たら、通路を渡り、エレベーターを待たずに階段で全速力で1階まで降りることを思いつく。

 降りるというよりも、ほぼ「飛ぶ」と言った方が早いかもしれない。1段抜かしで最初は降りていくが、そのスピードでは追いつかれるかもしれないと思った私は、1段抜かしから、2段抜かしへ、2段から全抜かしへと、踊り場から踊場へジャンプして、階段には一段もふれないで1階まで降りることを覚える。

 1階へ無事に到着した私がロビーから外へ出ると、大声で私の名前を叫ぶ声が上からこだまする。母である。

「ジュース飲んでけ!」

ジュースを飲んでいる期間は、確かに病気にかからなかったが、それが野菜ジュースのお陰かどうかは、原因結果の関係ではくくれない。再現できているのかどうかが分からないからだ。

ただ、
「今年1年は、病気をしなかった」
「今年1年は、野菜ジュースを飲まされ続けた」
「今年1年は、野菜ジュースを飲まされ続けて、病気をしなかった。」
というロジックが成り立つようにも思えるが、飲まされ続けて病気をする人が皆無になることは証明することはできない。あくまでも状況証拠に過ぎない。

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