予備校
バンドにすべてのリソースを投下していた高校生活ではあったが、一応、予備校に通ってはいた。勉強自体は好きだったからだ。勉強が好きだけれど、テストが嫌いな人間である。
予備校の授業を受けていると、受ける前に全く分からなかったのに、目から鱗体験をすることばかり。この瞬間が好きでたまらなかった。受験文化の負の遺産は、それを暗記させることにあると思っている。
受験時代にあれだけテストのために覚えさせられ、中高の中間期末でも、暗記をさせられ、覚えているかをテストされた。その度にいい成績を取れず、時には赤点を取ったりもした。そんな思いまでして大学受験を経験し、社会人になったら、何一つ暗記している必要なないと知る。
社会に出れば、どんな案件があっても、ネットで調べたり、文献を調べたり、リサーチにかけたりして、正解に近いものを見つけて実行していく。それがお金になっていくわけだ。
つまり、社会はいかに早くカンニングを成功させるかにかかっている。カンニングの才能は、「どこに何が書かれているかを知っている」能力にある。本を読んでいさえすれば、内容を逐一覚えていないけど、聞かれている内容は、どの章に書かれているかを知っているから、そのページをいかに速く開けたかで、その人の能力値が決まる。
それなのに暗記をさせて、覚えていないから不合格とさせるテスト文化は、何のためにあるのか。高校や大学受験で必要な能力は、アメリカの大学で経験した、「持ち帰り試験」に答えが隠されていると思う。
高校や大学の7年間は、毎回、教科書と計算機は使っていいとする。試験は、教科書の範囲内からしか出ない。その回答が、教科書のどこに書かれているかを見つける能力が、社会に必要な能力なので、毎回、教科書持ち込み可能な試験をする。そうすることで、「検索能力」が向上してくだろう。
これからの能力は、問題が提起されたら、ネットやAIで検索をかけることが出来るので、高校から導入するべきである。今までの試験は、歴史であれば、史実を選択肢の中から解答を見つけることが求められていたが、これからの歴史は、「歴史は繰り返されることを考えた時、史実に基づいた考察をした場合、これからのネット社会はどうなっていくと考えられますか?」というような問題が出題されるべきだと思う。
こういう問題であれば、詰め込むために睡眠時間を削るなんてことをする必要もなく、歴史の教科書を見ては、「この史実は何を伝えようとしているのか?」「この史実の本質は何か?」「その本質から得られる教えは何だと思うか?」という考察を繰り返す練習をすることが、これからの受験勉強だと思う。
さて、あの頃の受験に戻ろう。テストが嫌いだったという話だった。予備校に通って思うのは、なぜ同じ「教える仕事のプロ(教えることが生業となっている)なかで、なぜあそこまで教え方が上手な予備校の先生と、そうではない学校の先生に二極化するのかと言うことである。
予備校の先生に出来ることが、学校の先生に出来ないわけがないと思っている。強いて違いを言うのであれば、学校の先生は、教えること以外にもやらなければならないことが存在している。それは確かである。しかし、果たしてそれが教え方の質に関係するのだろうか?
予備校は現役生コースであっても、高3になれば、過去問に沿って教えていく。それが現役合格への近道だと思うからだ。では、学校ではなぜそうしないのか。進学校でなければ、そうする必要はないが、どの高校も生徒がいい大学へ進学してくれれば、学校の評価も上がると思っているし、そうあって欲しいわけだ。なのに、なぜ、大学の入試問題に沿って教えないのだろうか。
高校の教師がもし教え方が分からないならば、定期的に研修を受けてみればいい。いっそのこと、予備校の先生から教えてもらったっていい。どこの親だって予備校や塾に通わせずに、いい高校や大学に進んでもらえれば嬉しいに違いない。塾や予備校に通う費用は、正直有効活用できているとは思えないし、使い過ぎている出費だと思う。
あるいは、発想の転換で、高校も浪人生を預かって受験対策してみたらいい。義務教育は終わっているから、浪人生は国の支援を受けられない金額で預かるとすれば、追加の収益にもなるだろう。日本の学校は、アメリカの学校と違い、ビジネスマインドが疎い。