3年生の引退
そんな3年生も引退を迎える。
ついにうちらがスタメンの時代が来た。
しかし、既に「どうせ練習出ても試合に出られるわけじゃないし」と口々に拗ねる他の部員が直ぐにやる気を出すわけもなかった。
部員の数こそ試合ができるだけの人数はいたものの、練習に出てくるのが5,6名で後は後輩だった。
私が入部したての時の3年生と同じ状況だ。
試合形式の練習にも後輩が起用され、練習試合や公式戦でも後輩がスタメンで起用されることになる。
スタメンで出場するようになった後輩は、もともと上手かったのもあるが、試合の場数を踏むことで、めきめきと上達した。
他校の練習試合では、後輩の代同士の練習試合も組まれたりもした。
顧問も私たちの代が強い後輩の代の活躍を邪魔しているように見えたに違いないと思う。
だからこそ、私達には強く当たったのかもしれないとさえ思えることもあった。
しかし、そんな顧問も喜んだのが、私たちの代の女子だ。
私達男子は弱小チームだったが、女子は常勝チームで負け戦が殆どなかった。
私達男子チームは、顧問から、両頬をひっぱたかれ続けるように怒られ、時には空気の入っていないゴムボールを二つに折りたたんで、それで私たちの両頬を交互にひっぱたき続けたりすることもあった。
チームの一人が学校に飴を持ってきて食べていたことが担任にバレてしまった。
担任はバスケの顧問にそのことを伝える。
部活の時間になると、顧問は飴を食べたやつは手を上げろと犯人捜しをし、正直に手を挙げた。
手を挙げた部員は、空気の入っていないバスケのゴムボールを2つ折りにした状態で、両方頬を次々に引っ叩かれていった。
その後、翌日の朝練に早めに来るように言われた。
「飴を舐めた」と手を挙げた全員が横に並ばされ、まずは右手で頬をひっぱたかれ、次に左手で頬をひっぱたかれる。それを一人一人に浴びせていく。
順番が回ってくることが怖いのだ。バスケ部に入る迄、こんなに人から殴られたことなどない。
親でもここまでひっぱたくことはなかった。
私のひとり前は、副キャプテンだった。
この副キャプテンは、いつもどことなくふざけているというか、気が散っているきらいがある。
両頬をひっぱたかれる時の2発目がジャストミートしなかった。
それに思わず吹き出してしまったのだ。
すると顧問は、「何がそんなに可笑しいんだ」と今度は脳天に一発張り手をくらわす。
副キャプテンも「2発目を外したものだから、つい」とは言えず、黙ったまま暴力に耐えた。
そこまで張り手を食らわした後で、私の番だ。
私は、不名誉にもキャプテンを拝命していた。
上手いからとかリーダーシップがあるからと言う理由ではなく、責任あることを誰もやりたくなかった。
たまたま私の兄は、バスケが上手いと評判だったからという理由で、何の関係もない弟の私がキャプテンに指名されたという流れだ。
私の番に回ってくると、右の張り手の後、
「何で食べたんだ!」
と聞かれるも、まさか「美味しそうだなって思って」などとは言えない。
仕方なく黙っていると
「何で黙っている。言え!なんで食べたんだ!」
顧問の両張り手は止まらない。
最終的には臀部を思いっきり蹴られ、私は痛みに耐えられず後退していく。
女子チームのメンバーも、見たら男子のプライドも傷つくだろうと配慮し見ぬふりをするも、心配せずにはいられないとばかりに、その顧問の攻めっぷりに引いている様子。
結局、朝練と言いながら朝の練習時間は殴られて終わった。何度も思った。
「何のためにバスケ部に入ったのだろう」
当時「スラムダンク」が放映されていれば、桜木花道ばりにバスケに無知な自分達を卑下することも絶対なかっただろうと思う。
花道のように下手なら下手なりに何かを目指して練習を重ねただろう。
ただ当時の自分達には、もはや目指すものがなかった。
顧問も目指すものができるようなビジョナリーな顧問ではなく、私たちの代が目指す目標は、「引退の日」だけだった。
中学の最後の公式戦は、「総合体育大会」、通称「総体」だ。
このトーナメントで負けると、それで部活の日々は正式に終わる。
スポーツアニメでは、最後の公式戦で負けが確定すると涙を流して悔しがるシーンが定番だが、私たちの代は、負けたことで「目標に辿り着いた」と思ってしまったのだ。
負けたその日、私の代の部員には笑顔が戻った。
皆、それ程までに嫌だったら辞めればよかったものを、辞めずにいてくれたことだけは感謝しないとなと心の中で思った。
殴られる日々から解放されたことからは安堵を感じたものの、もっと有意義な部活生活を送りたかったと強く思った。
バスケ部に入部したことに後悔はしていない。
でも、こういう向き合い方は、自分も成長しないし、案の定、チームも成長できなかった。
部員ひとりひとりも人として成長を遂げてもいなかった。
こういう向き合い方は、誰の特にもならないという学びの機会を得たとともに、弱小チームの看板を背負い続けたことは、私にとっては挫折以外の何物でもなかった。