記憶に役立つアウトプット
予備校で勉強している当時、「一問一答の暗記をしていては覚えられない」と口が酸っぱくなるほど言われ、講師が言う「もっと全体で捉えろ」の意味は分かっていても、全体を作るための「点」が足りなさ過ぎて、全体を構成することが出来ない場所にいた。
執筆している今になり、「学習はインプット」「教えたり、活用したり、書き出してみたりすることがアウトプット」と言うことを知り、アウトプットをして初めて記憶に留められ始めることを知る。
確かに、当時の学習の中で、「書き出し」て覚えようとはしていたのだが、書き出し方は正しくなかったと思う。講師の板書全体を何度も書いて覚えたのだ。
この方法の何が適切ではないか? 板書とノートに写しているいる時は、説明を聞きながら書いていて、その説明の中でのキーワードを書き留め、矢印などで繋げたりして、「言葉を視覚化」している。問題はここではなく、「視覚化された」写しを後で見た時に、これはどういうストーリーでこのような「視覚化」になっていたかを思い出せなくなるのだ。
これは、ビジネスの場でのプレゼン資料に似たものがある。プレゼンを受けた後、パワポの写しを貰うことがある。それを後で見返した際に、このページで言いたかったことって何だったっけ? となるのである。その感情が認識できたということは、あのプレゼンの内容が綺麗さっぱり記憶からなくなったことを意味する。その状態で受験時代に試験日を迎えてお見送りになっていたわけだ。
アウトプットの何が良くなかったのだろうか?
まず、「板書の写し」は効果的なのだろうか? 答えは「板書の目的を再確認」した上で、「目的に則った写しなら」効果ありだと考えている。
板書の写しの弊害は、予備校講師の綺麗な板書に見初められ、同じような綺麗なノートを作り上げることへと目的がシフトしてしまうことである。記号や、色使い、綺麗にまとめられた要点、これら全てで構成される自分だけの参考書が出来上がる事への満足感が記憶に留めるための時間の無駄につながってしまっている。
また、会議でのプレゼンでも同じことだが、プレゼン中に予め配布された同じ内容のパワポのコピーを、プレゼン中に読んでしまうことがある。その間に、登壇者の話は耳に入らず、気が付けばある一部のコンテンツは、丸々記憶から消えている状態になる。
同じことが「板書の写し」中に起こっている。「写し」は作業であって、「傾聴」から一旦分断される。まずは、傾聴を心がけ、傾聴中に理解できていることであれば、そのまま通り過ぎてもいいと思う。傾聴中に出てきた言葉や内容で、聞いても分からなかったものだけを、書き留めて、改めてその内容を深く調べてみることで、その単語や内容への「新たなインプット」が生じ、調べて頭の中で租借し、自分の言葉で書き出していれば、記憶にも留めやすかったはずである。
「板書の写し」で成功している人は、板書を自分の言葉に置き換えて書き留めていたのなら、記憶に留められているような気がする。しかし、書かれてあるままを、みたままの形や色で、文字通り書き写した人達は、記憶に失敗していると推察する。
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