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人生の再出発
難病発覚、結婚、そして離婚
当時、私は日本人の女性と結婚していた。
彼女は学生時代に非常に世話になった人で、年齢は同じだが学年は一つ上だった。
車も持っていない学生時代に、移動に制限がある中、彼女は色々と助けてくれたし、卒業後に仕事が見つからない時にも様々な支援をしてくれた。
そんなある日、彼女は難病を患うことになる。
余命を宣告されるほどの病で、余命は5年から10年ほどだった。
告知を受けてからは、私なりに彼女のそばにいて力になれる限り力になっていた。
しかし、彼女の容体が急変する。
社会人になってから受けていた大学のクラスの途中で腹痛に襲われたのだ。
検査入院から退院した翌日のことだった。
腎臓の検査で生検を行った際に出血し、その出血が止まる前に退院させられたことが後に判明する。
その出血のため、体はショック状態になり貧血状態にもなった。
大学のキャンパスから彼女本人から電話が掛かってきた。
激しい腹痛とのことだった。
我慢強い彼女が我慢できない痛みだったので、私は大学職員に救急車を呼んでもらうよう彼女に伝えた。
彼女の居場所は周辺の病院を回って見つけることにし、まずは救急車に任せることにした。
最初の病院では彼女が運ばれた記録がなかったので、次の病院へ急ぐ。
その途中で、バージニアに在住の共通の知人へ事の次第を伝えた。
知人からは、彼女が救急車で運ばれた可能性がある病院を教えてもらい、その病院へ向かった。
彼女の名前があり、その病院に運ばれていた。
早速、どの部屋にいるのかを訪ねると、処置が施されていないまま放置されていた。
患者が通路でも放置されるほど、急患の数に対して医師や看護師の数が不足していたのだ。
彼女は痛みに耐えられず苦しんでおり、モルヒネを注射してもらっていたが、既に3本目でこれ以上は投与できない状態だった。
私は受付に行き、痛みが激しいので何とかしてほしいと訴え続け、ようやく病室が決まってICUへと運ばれた。
ICUに運ばれてからは彼女も安静にする必要があり、看護師からその日は一旦家に戻るように言われたので、一旦帰宅した。
当時、私は仕事が見つからない状態だったが、この状況ではその方が良かった。
翌日から毎日看病に通った。
病院の食事がピザなど具合の悪い時に食べられないものだったので、近くの韓国スーパーのフードコートでうどんを持ち帰り、毎日病院へ持って行った。
彼女は少ししか食べられなかったが、何も食べないよりはましだった。
彼女は痛みに顔をゆがめていたものの、次第に落ち着いてきた。
毎日看病に行っても元気そうだった。
退院も間近だと思っていた。
その日は夕方から処置があるとのことで、看護師に帰宅を促され、私も安心して帰宅した。
その日はドラムの自主練をしにボルチモアのスタジオに行っていた。
2時間ほど練習をして帰宅すると、夜の11時を過ぎていた。
その遅い時間に私の携帯が鳴った。
容体が急変したので、親に連絡を取ってから病院にすぐに来て欲しいという連絡だった。
親御さんは日本にいるため、急いでも一日はかかる。
電話が通じない可能性もあるので、メールで状況を説明し、すぐに病院へ向かった。
病院に到着するとCCUという病室の前へ連れて行かれた。
CCUはICUよりも緊急性の高い患者に使用する病室で、看護師が常駐し付きっきりでケアしている部屋だった。
彼女の腹部は妊娠9ヶ月の妊婦のように膨れ、呼吸器に繋がれていた。
処置を行うと言われた時とは様子が異なり、看護師に何があったのかを尋ねると、出血が止まらずショック状態に陥り、体内にガスが放出され腹部が膨らみ、肺の周りに水が溜まって呼吸ができない状態に陥ったという。
出血は検査入院の際に起きたもので、難病が直接の原因で危篤状態になったわけではなかった。
私が駆け付けた時には山場を越え、命の危険は回避されていた。
彼女の母親は翌日の昼過ぎに到着し、私は彼女を空港に迎えに行き病院へ連れて行った。
彼女は意識を回復し、筆談で会話を行った。
その後、彼女は呼吸器を外され、普通の病棟へ移された。
彼女の母親が帰国した後、外科医から難病に関連する手術の提案があったが、彼女は手術を拒んだ。
外科医の手術成功の功績よりも、彼女は母親からのアドバイスを信じたのだ。
手術を拒んだことで彼女は退院を命じられたが、私はその時に結婚を決意した。
宣告された余命が近づいていると感じ、最期を看取ることを決めたのだ。
その後、私の仕事が決まり、私たちは籍を入れた。
それ以来、入院時のような状況はなく、通院での処方箋が効いていた。
しかし、ゲーム会社に就職した後、大手企業に買収されてレイオフとなり、私は食品営業の企業へ転職しニュージャージーへ引っ越すことになった。
彼女はすぐに仕事を辞められず、私は単身でニュージャージーへ向かい、彼女は一年後に引っ越してきた。
しかし、ニュージャージーの生活は彼女に合わず、主治医も職場もバージニアにいた頃の方が良かった。
彼女は毎週土曜日にバージニアに戻り、プロジェクトに参加していたが、次第に夜中に帰ってくるようになり、帰りのサービスエリアで車中泊することもあった。
私は彼女が元気なうちに好きなことを続けるべきだと考え、追及しなかった。
やがて彼女が週末家に帰らないこともあり、私は婚姻関係を続ける必要がないと感じ離婚を決意した。
その後、上司との確執や帰国の準備、転職先探しを同時に抱え、パンク寸前の状態だった。
彼女が荷物を取りに来たのも私が仕事に行っている間で、帰宅すると家はもぬけの殻だった。
やるせない思いを感じたが、役目を終えたと感じ、日本へ帰国する覚悟を決めた。
離婚後も彼女の難病は完治していないが、元気なうちに自分の志を全うすることを尊重した。後悔はない。