8月に思うこと ヒロシマ・ナガサキを思う
夏を一つの放物線と捉えたとき、
8月の、6日と9日はその頂点であるような気がしている。
世界で一番熱かったという、あの日に思いを馳せる。
8月になると、
原爆の日に祖母と行った広島の平和公園のことを思い出す。
シングルマザーとして私の母を育て、
私の記憶の中では、
運送会社の女性社長としてバリバリ働いていた、
気丈な祖母だった。
祖母の涙を見たのは、その時が初めてだった。
祖母は原爆で、
父を亡くし、
多くの親戚を亡くし、
原爆後すぐに母も亡くした。
彼女はきょうだいで助け合ってなんとか戦後を生き延びてきた。
祖母が亡くなる直前、私に語ってくれた。
原爆投下の瞬間は、
路面電車にいたこと。
満員の路面電車の真ん中にいたから、
ガラスなどは刺さらずに済んだが、
窓の近くの人は大怪我を負い、
運転手もどこかに吹き飛ばされたと。
原爆が落ちた後、
兄と家の近くで会い、
2人で消化活動したこと。
もう、広島中が火の海で、
そんなことをしても無駄なのに。
若い人が消化活動しないと非国民と言われるから、と。
当然火の手は収まらず、結局は避難したという。
その時、重油のような雨が降ったという。
ただれた皮膚を引きずって歩く人、
動かない人の中には
多くの子どももいた。
そんな光景を見て、
「もう、子供は作らんどこう思うた。
子供を育てられる世の中でなくなってしもうた思うた」
当時20歳で未婚だった祖母はそう思ったという。
そして、最後にこう言った。
「一日、一日を一生懸命生きにゃいけん」
と。
戦後の復興の中で、彼女が考えを改めて、
シングルマザーとしてでも私の母を産んでくれたこと。
私が二十代の頃に祖母も母も亡くなったけど、
なんとかここまでこられたこと。
それら全てに感謝をしたい。
「80年前のことだよ」
「原子力を否定するのは、科学を否定することだ」
色々な声があるけれど、
原爆が私たちの多くのものを決定的に変えた。
多くのものを変えられた人たちと、その子孫が、
今もそのことを考えながら生きている。
8月になると、そんなことを思います。