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自分語りと村上春樹
内田樹さん
少し前の本だが、内田樹さんの書かれた、『もう一度村上春樹にご用心』というものを読んでいて、このような文章に行き当たった。
内田樹さんはこのような村上春樹解説のエッセイで有名な方で、その深い考察は彼の他の思想的な本にも現れている。(『日本辺境論』など)
(村上春樹の小説において書かれているものについて)
破局的な場面で、既存の価値観が崩落して、すべてが無意味になった状況において、それでも「人間的なもの」を失わないで生きようとする人間を描こうとしている。政治的正しさに基づいて断罪することも、宗教的な境位に持ち込むこともどちらも自制して、「人間はかくあるべき」という一般的真理を開示するものが誰もいないときに、なお「私はこうありたい」という人間的希望を語る。この節度の感覚はもっと高く評価されてよいのではないかと思います。
「地獄の釜の蓋」
ある意味「地獄の釜の蓋」が開いた状態。
そんな悪夢的状況はもはや何度も訪れた。
地下鉄サリン事件
東日本大震災
原発事故
コロナ禍
「既存の価値観が崩落して、全てが無意味になった状況」で、
人間的なものを失いたくない。
「人間はかくあるべき」という、
一般的真理を開示するものが誰もいないときに、
「私はこうありたい」という人間的希望を語る。
自分語りがなぜいけない?
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自分を出さない文章
そのようなものは、私は書こうとは思わない。
私は神でも総理大臣でも教祖様でもないから、
人間はかくあるべきというような普遍的真理を語ることはできない。
でも、ひとりの人間としてこうありたい、という希望を語ることはできる。
そしてそれが無意味なこととは思わない。
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