多様性の根源にあるもの ~共に育つ子供たちとの時間で気づいたことVol11
多様であるとは
多様性~
この記事を読んでくださっているみなさんは、この言葉から
どんなことを思い浮かべますか?
10人いたら10人分の、100人いたら100人分の多様性へのイメージや
思うことがあることでしょう。
「その人がどう感じるか」は、誰にも強要されることのない領域です。
”どう感じるか” ”そこからどんなことを思うか”
人と人とが重なりながら社会に存在しあう限り、
多様であるということは前提でもあるように思います。
では多様であるということを言葉にすると、
どのような表現になるでしょうか?
これも、それぞれにありますよね。
・・私の場合は…
それぞれのよさが活かしあえる
自由に自己表現できる
そんなことをイメージします。
”よさ”というのは、いい悪い という意味での ”よさ” ではなく、
その人自身の核、本質というようなこと。
どんな人のなかにも、(社会や他者に認められている、いないに関わらず)イキイキできること、得意なこと、ってあります。
その人らしくいられること、とも言えるかもしれません。
自由に自己表現する
自分をラクにありのままに表現できたなら、
その人自身の個性は、知らず知らずのうちに、にじみ出てきませんか?
夢中になることや、ついアツく語ってしまうこと、
頼まれてないのに率先してできること
その人がいきいきすることは、自然に表に出てきます。
ラクにありのままに・・・
私は これが、自由なのではいかなと思います。
自由って、決して自分勝手ということではなく、
力を入れず、ありのままでいる・いられること。
そして、体感してみてわかること。
今の私は、そんなふうに思っています。
日常の場面でみると、
スポーツや音楽、絵などの芸術、勉強など、
何かに秀でて才能があるということだけを指すのではなく、
例えば、
笑顔で人の心をほぐしてしまう、
話しを聴く力がある、相手の心を理解する、
集中力がある、
本当に様々です。。。
自由に自己表現できるって、ありのままでいながら
自分を表現できるということだと思います。
表現しないのは なぜ?
では、自己表現というのは、どんなことがベースにあって
積み重なっていくのでしょうか。。。
そんなことを考える出来事がありました。
先月学童保育での遊びの時間に、
跳び箱の練習をしたいという子(7~8歳)が4名ほど集まり
私のところにやってきました。
みんなで跳び箱をセッティングした後、練習を見守っていたのですが
何度も何度も飛ぶうちに、手足が疲労したのでしょう。
一人が跳び箱に手を付き損ねてマットの上に転倒しました。
「いたいっ!」または声をあげて泣く
・・そんな場面を想像する方が多いかと思います。
ですが、私が駆け寄った時、この子は無言なのです。
痛いのを我慢して泣かないようにしている?
心配かけないようにしている?
びっくりして言葉も声も出ない?
色々想像しながら、声をかけました。
「大丈夫?いたかったね」
「動かせるかな?」
ですが「大丈夫」とひと言いったまま、無言。
いいえ、大丈夫ではないのです。
転倒の場面を見ていて、
突いた手は捻挫しているだろうと予想していました。
我慢しているのだろうと思っていた私も
何度声をかけても、表情硬く無言でいることに、違和感を感じました。
「こんなふうに手をついたんだもの、すごく痛いと思うよ。
泣いてもいいんだよ」と言うと、
じわっと涙を浮かべましたが、やはり「大丈夫」と言います。
あとでスタッフに報告して、
「失敗したと思いたくない気持ちが強い」というこの子の話を聞いた時
驚きました。
「できる」ということが、その子の大切な尺度なのかもしれない
と感じる場面は、確かにこれまでにもあったなぁと、思い起こしもしました。
痛いのに泣かない、痛いと叫べない。。。
強い子、めげない子、前向きな子 と思うでしょうか?
失敗したと思いたくない、は理性です。
理性で、自分の感じている痛みをなかったことにしようとしているような
「大丈夫」は、想像しても苦しくなります。
この先もこうやって自分の気持ちを抑えていくのでしょうか。
どんな信念をもつか・・・は、子どもの場合、
周りの大人がつくっているとも言えます。
周りにいる身近な大人の在り方や、言葉など、子どもへの反応によって、
子どもは何が重要であるかをつくり上げていくのでしょう。
無意識に。。。
この日以来、私はその子の前では特に、
大人としての振る舞いだけでなく、
率直で瑞々しい感情表現を心掛けています。
うれしい~!びっくりした!おもしろいね!
などのポジティブと言われる感情だけでなく
悔しい、悲しい、ムッとしちゃう、などのネガティブな言葉も使うように。
どんなことを感じてもいい
どんな感情もあっていい
という大前提は、とても大切で安心安全なスペースです。
誰かが一緒にその気持ちに寄り添ってくれると
子どもは、安心してその感情を自分のものにできます。
「こういう時は、こうしたらいいんだよ」という正論よりも
あたたかく寄り添ってくれることが、
大きな大きな後押しになる気がします。
(成長過程によって必要な手助けは変わってくるでしょうが)
自分の感覚や感情を感じて、そのまま受取ることは
自分自身の存在をそのまま認めること、ひいては
相手や周りの人間、自分が出逢う出来事を受け容れることにつながっていくのだろうと思うのです。
何かができたから、ということではなく
「私はそのまま存在していい」し
もしそう思えないとしても、誰かに助けを求めてもいいのですよね。
「跳び箱、落ちちゃった。すごく痛くて泣きそう!」
「悔しい!」
「はずかしい~」
みなさんのそばにいるお子さんは、自分の感情を表現できていますか?
みなさんご自身はいかがですか?
どんな環境だと、安心して気持ちを表現できますか?
まずは私たち自身が、自分の感情や感覚を感じること
表現できること
それがとても大切な気がします。
このお話にはまだ続きがあるのですが、
何回かに分けて書こうと思います。