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重度障がい者のやりきれない思いを形に。社会参加、障がい者と健常者をつなぎたい。複雑な想いをほどきながら足跡を残していく。ボランティアを力に、想いの実現へ。

第三章

松の木福祉会


当時ボランティアや介護保険制度などなかったのでボランティアを集めるサークル活動から始めることにしました.

当時は重度障害者が表に出る機会などほとんどなく,家に閉じこもりがちだったので社会参加が遅れていたのも事実です。

そこで、私は社会参加を呼びかけていくためのボランティア集めから始めました。


昭和49年の3月下旬でした。

ボランティアを集めるために同級生のお兄さんに車に乗せてもらい、
神戸新聞社の社会部へ飛び込みました。

呼びかけの記事を頼みに行きました。

真剣に頼みこんだところ担当の記者 の方が大変共鳴してくださり、
割と大きく取り上げてもらったことを今でもよく覚えています。

本当に取り上げてもらったことに対して感謝の気持ちがいっぱいで嬉しかったです。

その記事を読まれて手紙をくださった方が3人おられました。
そうして、やがて助けてもらうようになりました。

その中の一人の男性は、神戸三菱造船の作業員で当時、事故で入院をされていた方だったそうです。

手紙の内容を読んだ 時、いい人が見つかったと思いました。


その人の手紙の中には次のようなことが書かれていました。

「 今、私はベッドの上で毎日過ごしています。あなた方の気持ちがよく分かる。退院したら是非手伝わしてください。必ずお伺いします 」

と書かれていました。

その人の気持ちとバイタリティには私自身驚くぐらいでした。


その人が退院して初めて来られた時の事です。

神戸の兵庫区荒田町から東灘の私の家まで(約20キロくらいの距離でしょうか)自転車で来られたと話された時には驚きとその気持ちに感動しました。
その人がいなければ、今の私はなかったと思います。

それからというのも毎週のように自転車で来てくださり、
私を連れ出し障害者集めや活動を探しに奮闘してくださりました。

私も生まれて 此の方、幼少の頃に母親に電車に乗せてもらった記憶以外は遠くまで出たことがなかったのでその人と二人で電車や交通機関を使っての外出が楽しくなったことも走馬燈のように思い出されます。

サークルグループとして昭和50年3月2日松の木会という組織を作り、会員数10名ほどのグループが出来上がり活動がいよいよ活発になってきました。

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中でも週1回の土曜日の放課後を利用して友生養護学校の卒業生を集めての機能訓練・回復訓練の手伝いが始まり充実した活動が始まりました。

この訓練教室は養護学校を卒業したら機能訓練・回復訓練が遠のくため、卒業生から声が上がり学校の教師の協力も得て訓練教室が始まりました。

専ら私達の役目は家から学校への送り迎えの依頼でした。

この活動が障害者の集める第一歩でした。

やがて月一回の定例会は、障害者と健常者との交流会へと歩み出し、
ショッピングやレクレーションのためにボランティアも多く参加してもらえるようになりました。
会にとっても、私にとっても、充実した生活を送らせていただいていました。

やがてボランティアさんから、車椅子の扱いや障害者の付き合い方など教えて欲しいとの声が上がり、神戸で個人団体での講習会を初めて開催することになりました。

社会福祉協議会に声をかけ、車椅子の説明も本を入手して準備を整えて開きました。

講師は私と健常のボランティア経験2年となった方が主となり開催しました。

なかなかの好評で終わりました。

講習の仕方としては障害者の方とボランティア希望者の方とがペアを組み
実際に会場周辺での実施体験や
実際にボランティア希望者に車椅子に乗っていただき
危ない事の体験等も取り入れながら行いました。

3ヶ月に1回ぐらいの活動として生まれました。


このように活動を進めていく中、
ポートピア博覧会の見学また淡路島の旅行など活動が広がっていき、
年1回の障害者が音楽に親しめるようにと
自作のふれあいコンサートの開催や資金集めのための 活動や
今でいうリサイクル品を頂いてのバザーの開催と幅広い活動が徐々に広がり
初期のころから比べれば
神戸市社会福祉協議会もボランティア集めに専念し始め
ボランティア団体も多く出てくるようになりました。

ちょうど昭和50年代前半には、
ようやく障害者が表に出られ活発になってきました。

昭和53年の頃から、私たちの会にも送迎活動のための車が必要となり
24時間テレビの送迎車をいただくことができ
活動はより行動範囲が広がっていきました。

話はさかのぼるのですが、私の幼少の頃は、障害を持つ者にとって世間一般では障害を持った子供ができるなら大抵の親御さんは世間から隠すように部屋に閉じ込めるという風習だったと思います。

隔離状態というのが主流だったのになぜか私の親は無頓着で、
近所の子供と一緒に遊んだり、私が体が不自由なので
ご飯を近所の女の子が食べさせに来てくれたりという環境が当たり前でした。

今から思うと本当に幸運な事だったのかなと思います。

私自身、青春時代まで差別など考えたこともなく、不自由さも感じず送ることができたので、このような活動が必要なことだとは夢にも思わなかったのです。

年令を重ね、社会に触れ、いろんな人と交流が広がるにつれて

差別というものが、じわじわと実感するようになりました。
そのきっかけでこのような活動を始めるようになりました。
それは、人以上にそのつらい反動は大きく想いが深く情熱につながったのかもしれません。

このような障害者運動を軸行ってきた活動を通して、40年も続けてこられたのはわれながらに馬鹿なのかわからないけど自分に褒美をあげたいくらいです。

やがて障害者運動は福祉制度へと変容し、障害者でも働きたいとか自立生活を送りたいとか様々な欲望へと展開してくるようになったのもちょうどこれぐらいの時からでした。
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