我慢する事
私は、重度の脳性小児まひ者です。この立場として生まれ、自分にとってはあたりまえの生活が続いていますが、我慢としては人並み以上だったのかなと思いつづってみます。
自分で不思議に思うのだけど「なんでも言いきれる自分」がいます。
これまでの自分になかったことなので、余計に強く思います。
「なんでも言いきれる自分」とは、これまでの自分と比べてのお話で、
こうちゃうんかなと遠慮がちにしゃべっている自分だったですから。
ほんとについこの間までは自分の意見というのは合っているか間違っているか、相手の気持ちを優先して考えていました。
つまり、自分に自信がなかったから、嫌われるんじゃないかという遠慮がありました。
しかし、「相手の気持ちは考えない。自分を出さないとあかん。」と方向転換を切り、自分でためず発信することにしました。
(ほんとに、大きく180度の転換です)
失礼いたしました。_(._.)_
これまで、たらたら書いていましたが、なにかを変えようとしているのかなとは伝わったと思いますが、背景が見えないから意味がわかりませんね。
長年付き合ってくれているヘルパーさんに対しても、また別のヘルパーさんへの気持ちをズバリ当ててしまうこともあります。
今、ボンボン言えていることが不思議に感じます。
正直慣れないことをやっている感じ。しかし、
今が、自分らしいと感じています。
なににおいても、すべてが自信なさそうにしゃべっていた自分がいます(全く、筆者には感じませんが^^;)。
相手から、言われたらそうかなと思ってしまう。
相手の話を、それも一理あるのかなと飲み込むことをしていました。
しかし今は、自分で言いきってしまいます。
自分の考えを言うようにしています。
今までは、相手にまかれるというか・・。
冷静な目で、見れるようにもなったのかもしれません。
どう表現したらいいのかわかりませんが・・・。
人間的にも成長できているのかなとも思います。
そこに気づかずこのままいったらどうだっただろう。
しかし、「想いを出す」って、とてもいいことだと思います。
いくら相手を配慮し遠慮がちにしゃべっても、こちらの気持ちが通じない。
これまでのかかわり方が、かえって相手をダメにさせてしまうのかもと考えるようになりました。
常識から考えて、それは間違いだと言うべきかと。
(常識を外れたものの捉え方で来られる人に対しても受け入れておられていたようです^^;)
自分の想いが通じなかったら何の意味もない。
相手を傷つけない程度で、かかわってきました。本当に。
僕が相手のことを思ってさせてもらったとしても、本人が気に入るか気にいらないかによって、平気で軽率に判断し前面に出してくれるお馬鹿に対しても、対応して・・。
自分のお金(年金)にしても、他者にまわしていたことが無駄になっていたような。
要するに、
自分がやってもらっている立場を考えすぎて、なんらかのお返しをしなければという気持ちからそうしていました。
しかし、今後はそういうことをやめていこうと思いました。
いつまでも、そういうことばかりやっていたらみんなに誤解されたまま自分が終わってしまうことがとてもみじめなのです。
だから、決めました。
これまで、こちらが相手を思ってやってきたことが、感謝されるどころか、邪魔ばかりされるかたちとなり、それを逆手に蹴落とされるはめになりました。
蹴落とされることばかり、なんででしょうね。
利用するだけ利用して、人間やってはあかんことをやっている人たちがいてこのまま悔しい思いのまま残り少ない人生を終結する理不尽な事なんてないよな。
遅いかもしれないけど、今から自分の人生を歩もうと思いました。
人の役立つことを・・・
障がい者でも人の役に立ちたいとの願望があるのです。
行動したい。今からでも。
人の役に立つとはなにも行動にできなくても、気持ちだけでもできるのではないのだろうかとただその一点だけでやってきました。
我慢をして・・。
我慢というより、自分のことをほかしていました。
例えば、自分はお金持ちになれなくても、関わってくださる人が喜んでくれれば・・・。
自分のことを二の次に置いていました。
今後は、ちょっとは自分をかわいがりたいなと
思い始めてきたことなんです。
相手にどう思われようが。
たとえ、一か月でも、2か月でも、1年でも、自分があこがれてきた人並みの生活・・・。
改めて、言いますと僕は、健常者とは違います。
重度障がい者です。健常の方とは違います。
僕のかなえたい最後の想いは、
「 愛情をうけて、最期を迎えたい 」ということなんです。
Q:坂本さんにとって後悔のない人生はおくれそうですか?
⇒今までの後悔はないよ。なぜかというたら、そこを否定したら今までの生き方を否定することになるから。
Q:改めて、最終的にやりたいこととは?
⇒最終的に、まっすぐに愛し愛される経験を勝ち取りたい。人生の総仕上げとして。(幼いころはとても恵まれた環境で健常者の中で生きましたが、社会に出てから、精力的に社会活動を自身の力で先導して、その先に事業所の代表となったはいいものの最終的には事業所をたたまざるを得なくなったうえ、親族・家族から縁を切られ、一人で生きるしかなくなりました。ずいぶん愛情とは切り離された日々を邁進していました。)
自分の生きた証として本にしたい。
こういう人生模様だったから、そんなふうに考え、そんな言動につながったと明白になり、その内容が人のために、役立つかもわからない。
特に障がい者に。そう信じたいですね。
自分の生き様は大したこともないかもしれません。
しかし、ここまで自分を押し殺して人様を中心に考えてきたという信念だけは、誰よりも負けない気持ちです。
健常者にはわからないかもしれませんが。
このまま終わったら、あまりにも、かわいそうすぎるだろうともう一人の自分に問いかけます。
自分の為に生きてもいいですよね。自分をかわいがってあげたいです。
平凡でも。
言葉を発していきたいです。
そして、真の意味でひとに愛され、健常者なみの・・・・・
真の家族愛を味わって終わりたい。
(筆者の解釈:真のといっても、ほんとうに普通の温かいありふれた家庭を想像されています。)
具体的に何がしたいかと言ったら、
動物でも本能に任せて、生きている。
・動物のようになりたい。
・欲望もすこしはだしていきたい。
・本当の意味で自分の為に使いたい。
・行きたいところにも行きたい。
・美味しいものも食べたい。(今は、弁当をたべています。)
・手作りの愛情こもったものが食べたい。
おから、一個でも贅沢でなくていいので。
・女性の肌にふれ、体温を感じたい。
ありのままの自分を出してみて、人生を終わらせたい。
食べること、人間関係、すべて開放して、
動物が地球上でそのまま自然の中で生きているように。