一枚の自分史:母のお小言
1924年大正14年8月4日生まれの母が 十五から二十歳の頃、おそらく春3月か4月というのが、東京高等技芸学校の入学式か卒業式であろう集合写真。
卒業式は1945年の3月、その頃東京は前年の11月から大空襲を経験していた。そんな中で写した写真とは思えないので、 これはおそらく入学式の写真であろう。
多くの女性が写っている。洋服の人もいれば着物姿の人もいる。この頃のファッションの先端とまではいかないが、 かなりのレベルであったのではないかなと思う。なぜかというと、この学校は、この時代の洋裁の最先端を行く学校だったから。
母は、高等小学校を卒業した後、早逝した母親の代わりに家事を担いながら、時に勤労奉仕で工場などに行っていたらしい。
母の郷福井県大野村は羽二重の産地だった。その時代、村の娘さんたちはその工場に働きに出て、多くの人達が結核を患った。
早くに連れ合いを亡くした祖父は愛娘まで早く失いたくない一心で、女中奉公というカクレミノを着せて母を東京の学校に出した。実際に、陸軍のお偉方のお屋敷に行儀見習いとして下宿させてもらい、そこから学校に通ったそうだ。
東京の食糧事情は悪くていつもお腹をへらしていて、母は休みには帰りたいと祖父に手紙を書いたが、村の中では学校に行かせているということは秘密だった。そんなことが知れたら物笑いの種だったから、休みになっても決して帰ってくるなと厳しく言われたとよく話していた。
よく、あの時代にあの山奥から東京の技芸学校に入学させる。そのことは、私が四年制の大学に進学することの比ではなかったであろう。祖父の慧眼には感服するしかない。おかげで、私まで当然のように大学まで進学させてもらった。
さて、母が下宿させてもらっていたお屋敷は相当な格式のあるところだったようである。何人も書生さんを置いて大学に通わせていたり、女中さんも一の女中さんから何人もいたそうである。母たちは朝の暗いうちから起きて、大きなお屋敷の床を拭いて、朝食の準備をし、ご主人共々に大勢で朝食をとってから登校し、下校したら、またお風呂を薪で炊くことから始まり、仕事が終わって寝るのはいつも10時頃だったと。
一の女中さんは相当厳しかったらしく、立ち居振る舞いまでしっかり躾けられたようだ。元々、生まれ育った大野というところは小笠原公の居城があり、小笠原流作法の本流のあった土地柄、田舎育ちとはいえそれなりには育っていた。その上に江戸時代からの流れを汲む旧家の作法やしきたりを叩き込まれたようである。
だからとにかく口うるさかった。どれだけお小言を食らったことかしれない。私はうるさく言われると逆らいたくなるという困った娘だった。
卒業を控えた数日前、3月10日に大空襲に見舞われた。荷物は既に鉄道貨物、母はチッキで送ったと言っていたが、貨物列車が空襲を受けて、勉強したノートや大切な縫製見本など全部灰になってしまった。そのことをいくつになっても悔しがった。卒業証書と身ひとつの帰郷だった。
母は学んだことを生かせたのだろうか。父に振り回されて、朝から晩まで父の事業の片腕となって働き、家事と育児に追われ続けていた。
そんな中でも私たちは覚えている。 特別な日の朝はいつも新しい服が枕元に置いてあった。夜遅くまでミシンがカタカタとなっていた。
もしかしたら、母の才能を生かした事業をやっていたら案外成功していたのではないだろうかと思うことがある。コシノヒロコさんや森英恵さんみたいにね。
女でも自分を活かすために勉強しなさいといつも言っていた。
父が六十八歳で亡くなった後、ほとんど呆けたようになっていたのに、一年経った時「これからが私の青春や」と言った。そりゃそうよね。まだ 六十歳そこそこ だったのだから。
それから学び直したお作法や着物を縫ったりと手仕事を楽しんでいろいろなものを私たちに残してくれた。病に倒れるまでは自立して、自由な一人暮らしを楽しんでいた。
母のお作法のファイルが六冊ある。本にしてほしいと言っていた。仕事に追われていて適当に返事をしていたら、先にへこたれてしまった。本当にごめん。これだけ待ったのだから、もう少し待ってね。
今年の夏には「ひいばあちゃんの日めくりお小言集」として、孫と共作で出版することを予定に入れているからね。
※集合写真手元になくて、届くまでは終戦直後のモンペ姿の母の写真です。
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