のりっきいの自分史D3:MVCCに入学

カジノで働いていた頃と同じぐらいの頃、 一九九一年九月にMVCCに入学。その頃の私は車の運転免許を持っていなくて、ジェリーがMVCCで働いてることもあって、毎日行く必要もなかったので送ってもらっていた。

私と 日本人留学生たちとサイコロジーの先生とESL のミセスロビンスキーとジェリーとその他もろもろの人がそこでは登場します。

そこでもまだまだ差別がありました。カフェテリアでの出来事なんですが、これは数回にわたって繰り広げられました。

MBCCというのは白人なり黒人なり黄色人種といろいろな人がいて、年齢も 十八歳で高校を卒業して入ってきている人から歳をとっている人まで、一九九一年当時でもアメリカではいろんな年齢の人が大学に通っていた。いつからでも勉強が始められた。

カフェテリアでは日本の留学生たちとは当然日本語で喋っていた。そこでよくあったことが白人黒人関係なく「ここはアメリカだから英語で喋れ」とか「ジャンプ」とか、時々は「チンク」とか彼らにとっては韓国人も中国人も全部同じで「早く国に帰れ」とか「ここで勉強する値打ちない」とか「俺らの税金をお前らが使うな」そういう嫌がらせを再三にわたって受けていた。

それと、もう一つ面白かったことがある。年齢の話になるのだけれど、あの頃、日本人の留学生というのが十九~二十一歳ぐらいがほとんどだった。やはり、その年頃の日本人の女子学生たちと一緒にいた。今だったら考えられないが、あの頃はまだカフェテリアの中でタバコが吸える時代だった。ちょうどタバコを吸っていたら、そこに、一九、二〇歳ぐらいの日本人の男子学生が三、四人やってきて、私に対して、いきなり「おばちゃん」と話しかけてきた。「おばちゃん、タバコ一本くれないか」と、ものすごく腹が立った。

差別待遇しない普通のアメリカ人はまず「イクスキューズミー」から必ず始まる。
前触れもなくやってきて、ただ日本人だから、ただ同じ顔しているからといって、ただ自分よりも年をとっているからといって「おばちゃん」と呼びかける。
その感覚にすごく腹が立って、「一体何のために外国まできてインターナショナルの勉強しているんだ。遠い日本からここまで古いメンタリティを持ってくるな!」と話したら、彼は「どうもすみませんでした」と謝ってきた。そんな面白い経験もある。

ここではいろんな経験があって、一つ面白いのが私は英語がほぼできなかったから人の数倍、たぶん 十倍ぐらい勉強しないと、全部英語の本だから理解できなかった。

私がとったメジャーの中で必須にサイコロジー1というのがある。そのサイコロジー1を担当しているプロフェッサーのところでは、大体、学期が始まって半期もしたら半分以上の生徒が落ちると噂になっていた。

それで入ってみて初めてなるほどなと思った。彼の英語の声の抑揚が激しすぎて、時々、うわ~んうわ~んとなって聞き取れない。ひな壇式のクラスルームだったので前や後や真ん中に座ったり端っこに座ったりしたけれど、やっぱり同じだった。

最初に私はこういう状態だからと許可をもらってテープを入れさせてもらっていた。テープで聞いてもやっぱりうわ~んうわ~んでほとんどわからない。

流暢すぎるのじゃなくて、声が大きすぎたり小さすぎたり抑揚が激しすぎて大きい時だけちゃんと聞こえる。それ以外の小さいのは聞こえない。だから学生が辞めていく。その先生は15年ぐらい働いてる人なので学校も辞めさせられない。そういうシステムになっていた。

偏屈な先生らしくてみんなが辞めていく中で、一緒にクラスを取った日本の北野高校から来た頭のいい女子学生がいて、今でも友人なのだけど、彼女も降りた。彼女は最高の成績で卒業したのだけれど他の先生のセミナーに入った。

それを見た時に何を思ったのか、彼女でもできないのに、「絶対、この先生で頑張ったる」と思った。それから必死だった!サイコロジーの本はA 3ぐらいの大きさで分厚い。毎日毎日、それを読んだ。まだコンピューターのスペルチェックなんかなかった頃で、辞書でいっぱい調べて、そして分からないところはプロセッサーの部屋に行って「私はこう思うが」と意見を聞いてを毎日のように取り組んでいた。
すると、この私がそのクラスでなんとAクラス(98点以上)をもらった。
それが私の自信と、英語ができなくてもやったらできるんだ。アメリカ人でも、成績優秀な彼女でも折れたのに、この勉強の嫌いな私でも頑張ったらできるんだ、その気になったらできるんだというのが自分の中で分かった。

それともう一つある。
ESL のクラスのミセスロビンスキーはポーランドの人で彼女も英語は第二外国語ですごく頑張っていた。プロセッサーするぐらいだから、もともと英語が好きなんだろうけれど。そんな彼女に義理の母のことや人生のことを話していた。
それを聞いていて、彼女が、私に言ったのが「ノリコ本を書け」でした。これが始まりだったのです。「ノリコ、絶対、あなた本を書くべきよ。あなた何でもできるわよ」サイコをとったところだったので「あの先生は半分以上の人が脱落するの、あなた、最後までやって、Aとたんだから、やればできる人でしょう」そんなことを言われて、そんな応援もあって頑張れたのです。


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