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【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~ 第七章   閑話休題「商売人の娘なんやから」


父さん
とうとう書けなくなっています。

新型コロナ禍で自粛状態が続いて、横浜の氷川丸にも、山口の大竹にも行けない。軍歴証明の記述の要約も全く進まない。どう調べたらいいのか分からないのです。それでも出来ることをしよう、何か書こうと思うのですが、筆が止まってしまいました。

今号では、「100人と書く一枚の自分史プロジェクト」で書いた父さんとの思い出を書いた原稿に少し手を加えて読んでいただこうと思います。
一枚の自分史とは、一枚の写真から辿った思い出です。先ずは、こちらの一枚の写真から。



 1972月秋、倉敷の美観地区。父と22歳の私が写っているレアな写真。
まず私がミニスカートであること。ヘアスタイルが珍しく短いこと。父と二人で写っている。ことなどがレアな理由である。

 大体、父と二人でお出かけがなかった。商売ばかりの仕事人間で日曜日でも働いていた。と父にはラベルを貼っていた。ところがそうでもない。思い込みってすごいなあと思う。意外に趣味人間で、家庭的な父親だったかもしれない。
 子どもの頃に難波の大劇に観劇に連れていかれた。帰りに夫婦善哉を食べて帰ったりした。
 母は下の子がいるので、長女の私の幼稚園の遠足の付き添いは父だった。今ならイクメンと呼ばれるんだろうが、その頃には珍しかった。
 お正月は、必ず家族で温泉旅行に連れて行ってもらった。マイホームパパだったのか?うん、なかなかの子煩悩でもあり、教育パパゴンだったのではないのか。
 社会活動にも積極的だったし、決して商売一辺倒の人ではなかった。いろいろな役を引き受けることも好きだった。たしかに地元で商売をしているとPTAの役が回ってくる。PTAだけは引き受けなかったので母がやっていた。子どものことは母親の仕事だと言い放っていたのは覚えている。
 あれ?父は家庭的ではない。あれは、母からの刷り込みだっただろうか?
「お父さんは、なんでも私に押し付ける。私は忙しいのに・・・」
 今なら、さしずめワンオペです!と、母は声高に主張していた。

 我が家のルールは厳しくて、父からの圧はずっと重く鬱陶しかった。
大学を決めるときも、京都のR大学の日本文学と大阪のK大学の国文学の両方受かっていても、
「R大に行くと優子は赤になる。大阪の商売人の娘やねんからK大がちょうどええ」
 と言って、K大に入学金を納めた。泣く泣く従うしかなかった。
何でも、先回りして決めてしまった。当然、抵抗したから
「文学なんかやってる娘より、商売を援けてくれている会社の女の子たちの方が余程かわいい」
 そう言われた。その言葉と商売人の娘やからは呪いのように私を縛った。

 70年に20歳を迎えた。折しも時代は、浅間山荘事件が勃発し、学園紛争は一定の終焉を迎えた。大学は紛争に明け暮れた。ロックアウトされて大学から放り出された。コロナ時代とはまた違うが、学生が大学に通えないのは似ている。
 父が心配したように私は心情的には学生運動へと傾斜していくが、親を泣かせなくて、ギリギリのところで踏み止まった。そのことで中途半端に自己を否定していくことになるが、それでも青春時代とは大したもので、その世代らしいキラキラは失われることはなかった。

 就職活動をして友人たちと同じように新しい世界の夢も見たけれど、親の会社では岡山支店を出す話が出ていて、結局はそこに行くようになった。
 卒業が青春時代の終焉のように思っていた。長かった髪を切った。新しい道を歩き始めた友人たちを遠く感じた。寂しかった。
 仕事は父から学んだ。周りの大人にとっては、私はただの青二才だった。青二才とはいえ、考え方は父譲りだから、廻りと合うわけがなく、激しくぶつかった。立場上、父は庇ってはくれなかった。
ある日、飛び出したが、思い切って行けるところはない。帰ってふて寝するしかなかった。
 その夜は接待で父が弱いお酒を飲んで酔っ払って帰ってきた。
「帰ってきてくれてよかった」
 親が死んでも泣かなかった人を私は泣かした。寝たふりを通した。

 岡山からは、苦い思い出を引きずって半年で帰ってきた。
たぶん、岡山を引き払うその前に、倉敷に行っていないなら、行こうということになった。どちらが言い出したかは覚えていない。そんな苦い思い出が浮かび上がる父と娘のツーショット!
 この後、10年もしないうちに父は病に倒れ、そこから9年後、68歳で路上に倒れて、そのままに逝ってしまった。何も聞けなかった。何も言っていないままの未完了な思いばかりが残った。

 正解のないのはあの時代も同じだった。自分の子どもにあれぐらい自信をもってこうせよと言える。戦争をくぐり抜けて生きてきた人はある意味すごいなぁと思う。
 だから反抗した。私はあなたの軍隊の部下ではない。戦争は終わったと。
そして同時に知っていた。父があの過酷な戦場から帰還してくれたから私が生まれて、こうして生きている。

父さん
そのことは、ちゃんと子孫に繋いでいくから安心してください。

 本当は音楽が好きでコンサートや旅行が好きだった。。長生きしてたら、したいことができたのに、いろいろなところに一緒に行けたかもしれないのに・・・、あの島から帰ってきた人は長生きできていない。

 晩年したかったことは、私が代わりにするよ。いろいろと楽しむことにするから。

 この原稿を入れた後、やっと、次回以降、書くことが見えてきました。少し前に進めそうです。
居住している自治体主催のオンライン読書会の課題図書の「夜明けの雷鳴・医師高松凌雲」を読み終わって、その後書きを読んでいると、著者の吉村昭さんが戦記小説を多く書いておられることが分かりました。史実を大切になさって調査や聞き取りを丁寧にされています。著述も淡々と信じ得るところの史実を書いておられる。これまで、この方の作品に出会うことはなかったのですが、今回読んだ作品からもよく分かりました。戦史関係の作品を方端から読むことにします。

 何時かとか、きっとはない。当たり前の明日はないとコロナで私たちは知りました。コロナショックが沈静化したら、すきを狙って、岐阜の満蒙開拓団平和祈念館、横浜の氷川丸、山口の大竹に行って現地に立ってこようと思っています。
 こんな時ですから、すぐに動くこと、それしかないと思い知らされています。

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