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一枚の自分史(偏愛山旅マップ):分岐点に立つ

1999年49歳の夏、北アルプス表銀座の縦走は金曜日の夜行で発ち、中房温泉から合戦尾根を経て、燕岳ピストンして燕山荘に泊まり、2日目は大天井岳までピストンして中房温泉へ下り帰阪した。

大学生の長男と長女、そして会社の娘のようなK子さんと、燕岳から大天井岳に向かう縦走路の大下りの頭の道標の前で槍をバックに撮っている。私以外は至極元気そうである。

1日目、部活や仕事を終えての夜行列車で寝不足で中房温泉に着いて早速、合戦尾根に取り付いて喘ぐ。
やっと内定をもらい就職活動を終了した兄、素直に行きたいと言えばいいのに、「おかんにはサポートが必要だから、ついて行ってやるわ」と大口を叩きながら、一番最初にバテた。
日本アルプス三大急登の悪名高い合戦小屋までたどり着いて食べた小屋の名物のスイカの味は格別だった。
子どもの頃はよく一緒に山に登った。やがて二人とも部活に夢中になり友人と過ごすことが楽しくなって、親の趣味には付き合ってはくれなくなった。
燕山荘は快適だった。両隣で二人の肌の温もりを感じて眠った。

2日目、ご来光でオレンジに染まって輝いていた下界では見せないあの子たちの顔は今でも思い出せる。
大天井岳までの縦走路を、ピーカンの槍穂、最高のロケーションのなか、順調に飛ばしていた。
ピークに着くたびに、妹の携帯の電波がピンポーンと入る音が鳴り響く。部活仲間にCALLして無邪気にはしゃいでいた。
このとき、わたしたちは大好きなことをしていた。

この一枚は分かりやすくメッセージを伝えてくれている。
あのとき、わたしたちはターニングポイント、分岐点に立っていたのかもしれない。

あの後、無邪気だった兄も妹もロストジェネレーション世代。就職超氷河期はその後の職業生活にも大きく影響を及ぼしていた。そして、人生の分岐点をいくつか経て今を生きている。

K子さんは、まさにその頃が人生の分岐点にいた。だから山に誘って俯瞰してもらいたくて連れ出した。山登りには人生のメタファが満載だった。

わたしはといえば、怒涛の50代の直前にいて、まさに分岐点に立っていた。
一年一資格を目指して自己啓発し続けた40代も終わろうとしていて、履歴書に書ける資格より、50代は内面を磨くことをしていこうと決めていた。
決めたからといって上手くいくわけではなかった。上手くいかないことが重なり、人生のピンチが団体で押し寄せてきた。生きるための手段としての資格勉強も再開した。

40代、50代で学んだことが身を扶けた。それまでの生き方で60代が決まった。そして70代の今がある。

いくつかの分岐点で、その都度メッセージを受け取って生きてきた。

コロナ禍の今、再びよく読まれているらしい当時のベストセラーだった五木寛之氏の「大河の一滴」。その時のわたしにはジャストミートした。
人はみな大河の一滴、ふたたびそこからはじめるしかない。
確かにコロナによって世の中は多くの分岐点に立たされている。
さて、何処の分岐から始め直したらいいんだろうか・・・。

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