一枚の自分史:「また来るから~」最果ての利尻・礼文島を訪ねて
1971年、学生最後の夏休み。
6月末に、前期の最後の授業をさぼってフライングして
北海道旅行をした。
すっかり、北海道の大自然と人の優しさに触れて虜になった。
その中でも、強く印象に残っているのが最果ての利尻・礼文島。
「戦争を知らない子どもたち」が流れ、70年安保の年に二十歳。
学生運動の渦中の学生生活から逃げ出すように
自分を探すために
あの頃の学生たちはザックを担いで旅に出た。
そんな私たちはカニ族と呼ばれていた。
JR、その頃は国鉄。列車の乗り降りや、通路を通るのに
担いでいるザックが横広のため
カニのように横ばいで歩いたのでその名がついた。
旅の相棒は部活仲間の女子一人と男子一人いう、逆ドリカム現象?
時々、その男子は、他の女子にひかれて
のこのことついていってしまう。
許っていたら、また、ひょこっと姿を現す。
自由な旅だった。
この写真は
礼文島のお花畑から「利尻岳」を撮ったもの。
そこに「私」が写り込んでいる。
「私」ではなくて「利尻岳」を撮ってもらっている。
だから体を傾げている。
見せたかったものは
お花畑で笑っている自分ではない。
私が見せたかったのは
串田孫一さんの日本100名山の一番目の座
海の向こうに浮かぶ利尻岳。
叫びたかった!
「昨日、あの頂上に立ったよ~」
だからご機嫌なのだった。
このどや顔、50年近くも経ってから発見!
ずっとお花に囲まれている自分ばかり見ていたから
気が付かなかった。
あの頂上に立つたんだと思うと満たされる
そんな若き日の自分が蘇る。
もう、100名山制覇はこれからはないだろう。
100番目の座、屋久島宮之浦岳は8年前に・・・。
100名山の一歩目をこの時踏み出したんだ。
そのことをふいに思い出した。
標高1718m、しかも海抜から登るので
日本アルプスの峻峰に登るより高低差はある。
しかも北の果ての山。
今から思えば、登るにはふさわしくない軽装!
若気の至りで、勢いで、いとも軽々と登ってしまったのだ。
朝一番に稚内の港からフェリーで鴛泊に着き
YHに荷物を預け、行動食と水だけを持って、そのまま登った。
最初は10人位で取りついたのが、頂上までたどり着いたのはたったの三人。
下山したのは日が落ちる寸前だった。
夕陽が真っ赤に海を染めて落ちる。
それを見ながら走って降りた。
そんな前日の興奮を引きずっていた。
そりゃ、こんな顔にもなるよね・・・。
礼文島から望む利尻岳は高く美しい。
潮風に吹かれながら、山に向かって
「また来るから~」とつぶやいてみる。
暑い大阪に帰ると、就職活動が始まる。
男子優先社会、大卒女子には厳しい世界が待っている。
進路に悩み、行く手には漠然と不安を抱えていた。
学生の特権、自由を取り上げられる。
好きなことはもうできないのか・・・
この旅を最後に。
旅を楽しみながらも切なさは心のどこかにあった。
はたして
卒業してから、つい最近まで、70歳を超えて
自分ではない誰かのために生き、役割を果たす日々は続いた。
やっと、仕事に一線を引いて再び自由になった。
したいことをして、行きたいときに、行きたいところに行ける。
なのに・・・コロナめ!
このタイミングでやってくるのか?
2月からの巣篭りを解いて
10月に利尻・礼文島に行くことにした。
コロナめ!
GOTOトラベルキャンペーンを使ってやるから!
「また来るから~」とつぶやいたあの日からは
すでに50年近く過ぎている。
過去と現在がどう繋がるのだろうか。
楽しみにしている。
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