【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~ その八 経歴を辿る・・戸籍謄本・軍歴証明から
父さん
生きていたら、この三月十日には百歳でしたね。それに気が付いたのが、三月も終わろうという頃でした。そうして決めたのが、来年の誕生日までに、この物語を書き上げるってことでした。そう、百歳の内にです。
そう決めて、四月十五・十六日に、岐阜の満蒙開拓団平和記念館を弟と尋ねて、いろいろと調査をする予定でした。その報告もかねて、今号を書くことにしていました。
猛烈な勢いで感染が蔓延している大阪の地から、平和な山の村の記念館を訪ねることに抵抗がありました。いろいろと調査やご案内をお願いすることになります。日を改めることになりました。
その後、新型コロナウイルスまん延防止等重点措置では効果なく、緊急事態宣言が発出されて、延期に継ぐ延期で六月二十日までの状態となってしまいました。先が読めません。
ただ、もう動くと決めているので。次号では、報告が書けるはずです。
父さん
ということで、今回も書けないよ。けれど、こうしているうちに、私一人が始めたことが、弟にも拡がったよ! 元々、彼は満州まで父さんの足跡を訪ねて行ってるからね。巻き込む予定だったけれど、平和記念館へ一緒に行くよ!と言ってくれました。心強いです。そして、妹も繋がりましたよ。氷川丸には一緒に乗ってもらいますね。
こうして、三人、きょうだい共通の取り組みとなりました。始めたときは、一人でどう動いたらいいかわからない私を静観しているだけだった二人にも通じていきました。
コロナ禍がなければ、もう出来上がっていたかもしれませんが、このことの方が父には大きなことかもしれません。そして、わたしたちきょうだいにとっても・・・。
さて、今回は、三月に弟と、古い戸籍謄本と軍歴証明、残された写真アルバムを突き合わせて、経歴年表を完成させました。完全なものはできませんが、そこから見えてきたことや、あくまで想定の域を出ないものですが、あのビアクの戦いに参加しているらしい。衝撃的な記述を見付けてしまいました。
経歴年表は物語の最後に付記する予定のものでしたが、まずは初稿をここで記しておくことにします。
父の経歴
福井時代(~十四歳)
一九二一年(大正十年)三月十日 福井県大野郡(現勝山市)野向町
高田茂吉三男として出生
同 四月五日 大阪市東区高麗橋 鶴澤重助と養子縁組
一九二七年(昭和二年)四月 野向尋常小学校入学
同 五月 養子縁組無効裁定が下り復籍
一九三五年(昭和十年)三月 野向高等小学校卒業
まだ、歩くことができない赤ん坊のころに神隠しに遇ったという話がある。村人がどれほど探しても見付からないでいたら、野向白山薬師神社の樹の切り株で泣いているところを発見されたそうです。
どうなんでしょうか。その頃は子どもが行方不明になると、そんなことを言っていたのでしょうか。
※三男坊が生まれたら養子にやるという約束を祖父は鶴澤家に嫁している大伯母と交わしていたそうでした。
実質は、生家で成長して、小学校入学の折、先生から「つるさわたかし」と呼ばれて、父が泣いて抵抗したら、母親すゑがあんまりかわいそうだからと、養子縁組解消を申し出て復籍しくれた。
鶴澤重助の家は文楽義太夫節三味線方の名跡。
寒村の五男二女の家の三男坊は「椀と箸はやるから、それを持って乞食にいけ」と言われて育ったとよく話していた。
養子のままだとどんな人生を送ったのでしょうか。
大阪での丁稚奉公時代(十四歳~十七歳)
一九三五年(昭和十年)三月 野向高等小学校卒業
同 大阪船場島之内の莫大小問屋に丁稚奉公
一九三八年 満州青年義勇隊に志願
満蒙開拓青年義勇隊時代(十七~十九歳)
一九三八年三月 満州開拓青年義勇隊勃利訓練所赤堀中隊に入隊
一九四〇年十二月 陸軍兵器学校を受験して合格し、帰国、入学
昭和初期、日本の農村は経済不況が続き、特に一九二九年(昭四)の世界恐慌で疲弊していました。まさに「椀と箸をやるから、それを持って乞食にいけ」と言われるような状況だったようです。丁稚奉公に出て口減らしをしても追いつかなかったのでしょう。
中南米への移民制作も解決とはならなかった。ときに、満州国が建設され(昭七)移住は、軍事的にも農村対策として大き な期待が寄せられることになりました。
そして、一九三七年(昭十二)日中戦争が始まり、一九三八年(昭 十三)から十五~十八歳の少年で組織する満蒙開拓青少年義勇軍12万人の送出が計画され、寒村の三男の父は、大陸に夢を求めてその一員となるのです。
陸軍兵器学校時代(十九~二十一歳)
一九四〇年十二月 陸軍兵器学校を受験して合格し、帰国、入学
一九四二年十一月二十日 陸軍兵器学校を繰り上げ卒業する。
即日、軍に入隊。
何故、陸軍兵器学校を受験したかについては弟が聞かされていました。
満蒙開拓団の少年義勇軍に所属している中で、軍隊の理不尽を日々、目の当たりにする。このまま兵役に着くと、殴り倒され、弾除けにされるだけ、それはごめんだと思った。軍は学歴社会、ならば、官費で入れる陸軍兵器学校に入ろう。旧制中学を出ていないので、まずは大検を受けて受験資格を取り、それから哈爾浜(ハルビン)まで受験しに行ったとのことだった。かなり勉強をしたはずです。いかに難関かは、第二章 学びの舎に書いています。
二年後、三年のところ繰り上げ卒業して、五日後には下関を出帆。再びの満州、孫呉野戦兵器廠に向かっていました。
戦地満州から南方へ(二十一~二十五歳)
一九四二年(昭和十七年)十一月 陸軍兵器学校を繰り上げ卒業。即日入隊
同 満州孫呉野戦兵器廠付配属、到着
富哈爾基(フラルキ)・南京(ナンキン)警護
斉斉哈爾(チチハル)・佳木斯(ジャムス)演習参加
一九四三年(昭和十八年)十月 南方転進。釜山出帆。
マニラ経由比島ミンダナオ島ブゴ移駐
第36師団海上輸送隊林料廠附
一九四四年(昭和十九年)三月 ミンダナオ島カガヤン~セブ島~
ハルマヘラ島ワシレ上陸
同 七月 ソロン前進でハルマヘラ島ワシレ出帆
船舶故障ワシレ帰港
同 八月 21日ワシレ大空襲
同 27日ワシレ出帆
ハルマヘラドヂンガ着
一九四五年(昭和二十年)三月 1日渾第二号作戦参加(昭和19年4月22日
~)ビアク島沖海戦
一九四五年(昭和二十年)三月 2日渾第三号作戦参加
一九四五年(昭和二十年)三月 歩兵第二南十字隊に転属
一九四五年(昭和二十年)五月 編成完結、マラリアで作戦参加出来ず
歩兵第二南十字隊本部附
同 八月十四日 終戦
同 九月十八日 肺結核・マラリア熱帯熱(公病)により、
カタナ患者療養所入院
同 十月二十七日 第三十二師団臨時第二野戦病院に転送
一九四六年(昭和二十一年)四月 第二十一師団第二野戦病院に転送
一九四六年(昭和二十一年)六月 5日、帰還の為、病院船氷川丸に転送
一九四六年(昭和二十一年)六月 17日、大竹上陸。
同日、国立病院に収容、同日除隊
一九年九月、モロタイ島に米軍上陸ハルマヘラ無縁孤立。全ての補給が止まる。飢餓とマラリアとの戦いになる。「北のアッツ、南のビアク」と呼ばれるほどの抵抗を続けたビアクの戦い(渾第二号作戦・渾第三号作戦)に参加していたことが軍歴簿から明らかになってきました。
そして、マラリアで参加できなかったことで生還することになりました。
帰還後国立病院に隔離されて治療の結果、帰郷を果たしたのは数か月後でした。
事業人生と家庭人生(二十八歳~六十九歳)
一九四九年(昭和二十四年)四月十日 平野はつをと婚姻
一九五〇年(昭和二十五年)一月七日 長女優子出生
一九五二年(昭和二十七年)二月六日 次女紀美子出生
一九五四年(昭和二十九年)十二月二十四日 長男光弘出生
~一九五〇年代 千代田金物株式会社開業と倒産
阪神厨器有限会社開業と倒産
~一九六〇年代 阪神光商事株式会社開業
~一九七〇年代 岡山光商事株式会社開業と移譲
一九八〇年(昭和五十五年)八月 心筋梗塞に倒れる
~一九八〇年代 闘病の傍ら趣味三昧の日々
一九八八年(昭和六十三年)八月 阪神光商事株式会社自主廃業
一九八九年(平成元年)三月二十九日 心臓発作にて死亡
きょうだいが多くて貧しかった少年時代、丁稚奉公、満州義勇隊、兵器学校、そして戦争。
わたしたちには想像ができない父の激動の人生。
戦後も、その後も激動の事業人生でした。
母から、商売第一で家庭的ではない人と刷り込まれました。
ほとんど仕事をしている姿しか思い出せません。
アルバムを開くと正月の家族旅の写真がたくさんあります。
それ以上に仕事や仕事がらみの写真があって、そして、趣味三昧の姿もたくさん残っています。
父さん
どうだったの?いい人生だったの?五十九歳で病に倒れたあとはやりたいことをやっていたよね。最後の十年間を自分のために生きることができたことをよかったなと心から思うよ。
病気しなかったら、ずっと、働き続ける人生だったのではないですか?
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