のりっきいの自分史D1:親の家を買ったらの狂騒曲
1989年の秋にチューマンズバーグからベロナのほうに引っ越してきたのね。その理由っていうのはジェリーがMbccのあるユチカ というところに仕事を見付けてきて、そしてそこに家を見つけるまで、彼のご両親が住む家にまたちょっとスティすることになったのね。
で、その時にキャサリン、夫の母親なんだけど、彼女は私たちに提案したのね。その提案っていうのが、彼らの家の隣の家を人に貸してたんだけど、彼らは来月には出ていく。その家の残った自分たちのローンを肩代わりするならそのまま住み続けたらいい。つまり、私たちに購入しないかっていうことでした。「払い終わった時点で私たちの家としていいのね」「そうだ」と確認した。
家というのは大体10エーカー以上の土地がついている。彼らは500エーカーの土地を持っている。母親のほうから「「10エーカーあったらどう」と、私は感覚として分からなかったので「 はい、何でもいいです」と返事。
そして10エーカーの区切りを「ここからここでどう」と絵を書いて示したので「あ、OKですよ」ということになった。
次の日、どういうわけか、ジェリーがいないときに「ちょっと気が変わった。10エーカーもいらないのでは?」「あ、いいですよ」「区分けをこっちのほうからこちのほうにする」というので、その理由を尋ねたら「こちらには私たちのグリーンハウスがあるから、スペースがあったほうがいいから」「はい、わかりました」
そしてまた次の朝に「ノリコ、野菜を作るわけではないから、別にファーマーをするわけではないから3エーカーでいいだろう」「いいですよ」そうしたら、彼女は土地をまた逆にした。私が「あのキャサリン、ちょっとジェリーと相談しますね」
三度目となるとちょっとひどかった。土地が削られたのに怒ってるんじゃなくて、その猫の目のように毎日のようにコロコロ変わることに対して不信感が募ってしまったのだ。振り回されて気分が悪くなってしまった。帰ってきたジェリーに相談したけれど、母親はきついものだから「母親がそういうならそれでいいんじゃないか、ノリコはどうなの」「別にいいけどね、不愉快やわ」と言ったら彼は黙っていたの。
それで、次の日も、ローンを返せばいいと言っていたのに、売値を吹っかけてきた。ものすごぐ腹が立って、なんか騙されたような気がして、それも赤の他人が騙すんじゃなくて自分の主人の親っていうことが許せなくてね、それですったもんだして、結局、親とはそれで合わなくなったという契機があったのね。
その時、義理の母親とのすったもんだの摩擦で気持ちが傷ついたんだけれども、その家の件だけじゃなくって、なんでこんなに引っかかったのかというと、1982年アメリカに来た年に戻るんだけど、最初の3カ月に泊めてもらった時、焼いたケーキを目の前で大きなゴミ箱に捨てられたということがあった。他にも色々ね、そういうこまごましたことが積み重なって最後の糸が切れたみたいなそういうことがあるのではないかなと思う。
それと、これはジェリーから聞いたことです。
ジェリーが京都に住んでいた時に友達になった日本の姉妹がいるのだが、その子たちが私がアメリカに引越しする前に一か月ほど彼らの家に泊まりに来ていて
「お母さんはその彼女らが好きなので、それで比較をしてたんじゃないか」彼女はこうも言ったらしい。
その姉妹はきょうこさんとよしこさんというのだが
「ノリコよりずっといい、何故、彼女らのどちらかと結婚しなかったの」
他にも、彼はコーネル大学出身である。彼女はアイビーリーグを出た息子が2回も離婚した連れ子二人もいる女と結婚するのかっていう、そういう面で彼女には不満があったんでしょうね。
それがいろんな面で出てきたんでしょうね。それの総集編だったのだろうか、恨みが家のことで積み重なったのでしょうね。後でそう思うのですが、その時はそんな余裕もありませんでした。
と言いつつも、結局は、私たちも早く家を決めないといけないので、母親の言うなりになって残ったたローンの金額と彼女の言う金額を足して買ったんですよね。
その家に入ってみると、前に住んでた人が動物を数匹飼っていたんですよね、まあ臭くて、4回や5回クロラックスで洗ってもとれなかった。
それだけではなくて、冬になると壁と内側と外側の間がすかすかで、風が入って冷たい、めちゃくちゃ寒い、アメリカで言うインスレーションがないんですよ。窓の隙間から見たら外側が見えるという隙間だらけの家を掴まされた。
そういう経験があってね、外でペンキを塗っていても、何をに付けても騙されたという感覚がすごくあった。
というのが親の家を買った経験でした。
その頃は、日本では昭和天皇の崩御したり、世界的にはベルリンの壁が崩壊した時、あの頃、私たちの友達のハーリイというドイツ人と奥さんで日本人のヒロコさんが西ドイツに住んでたころで、あの日はテレビで崩壊のニュースを見た時、即、ドイツに電話したことを思い出します。
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