一枚の自分史~青春の目撃者
1998年(平成10年)48歳の夏でした。
オープンしたばかりのびわ湖ホールでは全国吹奏楽学生コンクール決勝大会が開催されていた。
私と母は「金賞、関西大学応援団吹奏楽部」という発表を聴いていた。その瞬間、喜びが爆発する目撃者となっていた。
私は吹奏楽、特に学生たちのやたら大音量で吹き鳴らすような演奏が好きだった。だけど、観に来なくていいからと言い放つ、息子って愛想がない。
高校生で吹奏楽部に入部した。音楽からは遠いところにいると親は思っていた。実は本人も意外だったらしい。やがて夢中になった。チューバは主旋律じゃないから空しいと言いながらも大学でも続けた。
本人曰く「万年弱小で下手くそな高校ブラスバンド」から、「日本一を目指す大学ブラスバンド」への転身だとか。だからといって個人の実力は相変わらず。だから、コンクールでもコンサートでも別に来んでもええよとにべもない。
私の母は孫たちの演奏を聴きたくて、地区大会でも何でも音楽好きな友人を誘って追っかけをしていていた。母は孫が嫌がるなんてことはお構いなしで手放しで楽しんでいたらしい。息子も祖母には寛容だったし、バンドの仲間にも、今日も「もとちのば~ちゃん来てるな~」で通っていたらしい。
私ができていない親孝行を代わってやっていてくれた。
60代の耳に優しくない音楽で、鼓膜はだいじょうぶかな、心臓に悪いんじゃないのなどと冷やかしながらも、意外な展開をほほえましく思っていた。
その年までは、大会には聴きに来なくていいからだったのが、その年は絶対に来てほしいと言う。この年は気合いが入った。関西大会から全国大会へと追いかけた。
大会では、3キンと呼ばれている三回連続して金賞を取ったら一回出場を休憩することが規約で決められていて、常勝の近畿大学が3キンに当たっているこの年は、僕らが全国大会に行けるまたとないチャンスであるからということだった。
そう言われたら、行かないでいられるわけがない。 この日は米原に宿を取って、母を伴って華々しく遠征をした。
会社と家を往復する日々だった。家族それぞれが自分の時間を持ち、普段はお互いを構うことなく過ごしていた。兄も妹も部活一辺倒で全国レベルで活動し、充実した学校生活を送っていた。ただ、二人とも、部活では全国2位という結果を残しても、学業が追いていかずに、ともに留年するというおまけもついていた。親力を鍛えてもらって、その上にこうした時間ももらえていた。
近ごろ、新型コロナ禍の中にあることもあり、空を見る時間が多くなった。
月も星もよく見渡せている。これは、空気が澄んでいるだけのせいなのだろうか。
ちょうど、あの頃だった。
しし座流星群を高校生三年生だった娘と一緒に深夜に家を抜け出して仰ぎ見た。肉眼でもどんどん流れるのが見て取れた。
仕事に追われる日々にあってずいぶんと癒された記憶がある。
あの頃は、空を見上げることが日々の忙しさの中でできていなかったらしい。どうも時間の余裕もこころの余裕もなかったらしい。
音の渦が五臓六腑にガツンと響く。その時の演奏曲はもう覚えていないけれど、青春真っ只中の息子たち若きらが奏でる母校の学歌、応援歌を聴くことができる。なんて幸せなことだっただろうか。喜びを爆発させるその側にいることで自分の青春時代を追体験する時間旅行をさせてもらっていた。
人生の激動の中を育てながら楽しませてもらっていたよな・・・。
考えたら、息子もあの頃の私の歳にもうすぐ追いつく。
今は仕事ばかりで趣味のマラソン以外は仲間と飲むことぐらいしかしていない。あの年頃では、私がそうだったようにそれが精一杯なんだろうな。もっと人生を楽しんでほしいとは思うけれど・・・。
今の私は若い頃にやりたかったことをやっている。やっていたことを結局はやりなおしている。そんな日がやがてやって来る。
それまでは、目の前にあることを一生懸命にやっていたらいい。
今でもこれからも、あの頃のままで幸せな観客席で応援しているから。
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