一枚の自分史:母から見た就職氷河期における一女子学生の就職活動顛末記序章
2002年、52歳の秋。
氷河期と言われた娘の就職活動にハラハラさせられていた。
女性が社会に出てどれだけ夢が実現できるのか?学生時代に夢を追いかけないでいつ追いかけるのだろう?何にでもチャレンジして欲しいと思うけれど、現実は生易しいものではなかった。分かっているだけに親としてジレンマに落ちていた。
普段、採用の仕事をしているだけに、親としてはいかに静かに見守り、 タイムリーにアドバイスが出せるかに苦慮していた。
昨年、3年生の秋、求職登録している様子。
年改まって、自己分析をしているときの様子
「私の長所は有言実行なところだな」
「そうやな!」
いや時にビックマウスかなと思う時もあるけれどね。
「短所はいい加減なところやな」
「そうそうその通り、けれど柔軟で協調的でおおらかとも言えるよね 」
「そうそうその通りお母さんよく分かっているね」
そんな調子だった。
パソコンに張り付いてエントリーを始める。理想はそれなりに持っている。こだわってもいる。 黙って見ているしかない。
それより後期の試験、学年末休暇。せっせと部活に通っている。
街にはリクルートスーツが目立ち始めているのになあと気が気でないが、娘は少林寺拳法部の部活に気合が入っていて合宿に出かけてしまった。
その間にパソコンを開けると、未開封のメールが見る見るうちに貯まっていく。メールの多さから見るとどうやらエントリー最盛期らしい。 手遅れにならないのかなとちょっとイライラ。
3月の半ば、初めてのセミナー、メディア主催の合同セミナーなど、毎日となる。セミナー筆記と続くが面接まではなかなか進まない。「授業に出ないと単位がやばいからね、しっかり活動しとかないと」言ったこっちゃない部活にかまけているからね。
その後はしばらく部活や授業で就職活動は休止ている。大丈夫か?
4月からは毎日が就職活動になる。学校には1日も行けない。総合職営業職志望、狙っているのは広告代理店・・・。
初めて面接に呼ばれる。意気揚々と帰ってきて「ばっちり人事の人の心を掴んだよ」と。
しかしその後は何の音沙汰もない。
次から次へとお呼びはかかるものの、次の段階には進めない。
「なぜ落とされるかが分からない。人間不信に陥りそうや」
「人事の人は笑いながら落とす」
そんなことはない。ただ、ご縁のない学生には私も優しくはなった。
「自分は価値のない人間なのかな?」
そんなことない。ただ、この氷河期は人事担当者側から見てもただ事ではない。
娘の口から、聞いたことのないようなネガティブな言葉ばかりが飛び出す。
すっかり SPI 検査慣れしてしまったころ、
「灼熱のビル街を歩いていると、私ほどスーツの似合わん、街に似合わん女はいてへんわ」
そんなことない!ジーンズと T シャツがよく似合うけれど、黒のスーツもピシッと決まっているよ。
6月下旬
「今日の面接も良かったよ、初めて自分をしっかり出せたし、どうしてもここで働きたいと思った。ベンチャーの広告代理店、小規模で零細だけどやりがいのある仕事、自分を鍛えて力をつけることができると思う」
もう他社には目もくれないで、そこだけをじっと待っている。ちゃっかり他も進めておいた方がいいのになとは言いたくても言えなかった。
周りではそろそろ内定をもらったという話が出てきて、 親が焦っても仕方がないけれど、焦りは頂点になっていた。
たぶん、そのことを感じていたのだろう。こう言われてしまった。
「内定ははもらいに行けばくれる会社も業界もある、だけど内定やったら何でもいいからともらってしまったら、私はもういいやと思って、就活をやめてしまうやろから、それはしない」
賢明な判断だと思う。自分のことがよく分かっている。 もう少し黙って見ていよう。
母が緊急入院した。就職活動と部活とアルバイト「おばあちゃんのことは私が見てあげたいから」と、病院通いが加わった。授業はだいじょうぶか?
私のその期の採用の仕事も最終局面にかかっていた。仕事に追われる私の代わりに娘が一役買ってくれた。
すっかり諦めた頃、件の広告代理店から最終面接の連絡が入る。目的は学生サイドの決意の最終確認であるということ。本人は決意を固めていそいそと出かけるが何故か内定は持ち越しになった。会社へ不審を覚える頃、再度の最終面接の呼び出しがあった。その頃は他社も全て終了。持ち駒は尽きた。
そして9月、学生最後の合宿に出かけているその間に、件の広告代理店から書類だけが返されてくる。戦っている相手は即戦力として社会経験のある既卒者であり、女子に比べたら優遇されている男子学生たちであった。
勝ち目のない戦をしていたのだろうか。
3ヶ月間、件の広告代理店には引っ張りまわされたのではなく、 自分自身の甘さからから招いたこと、 自己責任の問題だからと泣き言は言わない。ずいぶん無理していた。
気丈な娘に成長していたが、それでも、
「今の私は広大な自然や美しいものを見ると自分のちっぽけさ、 醜さを思い知るばかり」
などと口走る。口先の慰めは何の役にも立たない。
金曜の夜は、レイトショーに一緒に出かけるようにしていた。そんなことしか私にはできなかった。
映画「ロードオブザリング」の最終シーンは苦労して難関を突破して、やっと着いたところは、それ以上の難関の入り口であった。
あの時の娘の就職活動を象徴していた。まだまだ終わらなかった。
輝くような自信と笑顔を取り戻す日、逞しい本来の我が娘に戻るまでにはしばらくじっと見守るしかなかった日々だった。
実は、この時点では入り口に過ぎなかったのだ。
母から見た就職氷河期における一女子学生の就職活動顛末記。日記を辿って、自分史の1ページとして書いて置く。
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