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一枚の自分史:街に降る雪・・・

まさに新型コロナオミクロン株禍と大雪のダブルパンチの日本列島。北国や日本海側からは大雪のニュースが流れてきて、否応なく2018年の福井豪雪のときの雪にまつわる悲しい思い出が蘇ってきます。大きな被害が出ないことだけを心より祈っています。

ありがたいことに、つまらないぐらい大阪は雪の降らない、降っても積もらないところ。何年も当地では雪景色を見ていない。だから、すぐにスルーしそうになった写真でした。
ちょっと待って、いやいや、この写真にまつわる思い出だったらありました。

街は少し雪が降るだけで都市機能が混乱する。
1965年(昭和40年)3月、大阪市内の下町、天下茶屋。

時計を見たらまだ早い。窓の外が薄明るくて目が覚めた。うつらうつらしていたら、「ゆうこ、起きや~、雪が積もってるで~」と起こされた。「うそ!」飛び起きて、外に飛び出して叱られた。はしゃいでる場合じゃない。今日は府立高校の入学試験の日だった。

この年に大阪府立高校を受験をした同い年だと、この話題はいまだに共有できる。沸騰する話題となる。

母がお弁当を作ってくれている。朝食をのんびり食べていた。お弁当は普段は自分で作っている。中学校3年間自分で作った。だからその時はまだ余裕綽綽でいた。
雪が降ると電車が止まるとはつゆも思っていなかった。雪が積もることがなかったからだ。

父が、当時、新進の商用車のご自慢のライトバンで送ってくれた。
それは嬉しかったのだけど、雪の中、校門の前に1時間も早く着いて降ろされた。
誰も来ていなかったし、校門も開いていなかった。

ニュースでやっていたそうだ。交通機関が全部止まって、試験は午後に変更になった。
携帯なんてない頃だから、何も知らないまま、私は雪の中に一人放置されていた。体中が凍っているようだった。

親心が仇になり、家に車があったことが仇になったのだ。少し恨めしかった。

それから、どうなったかだが、試験が午後になったことを知った父親が、高校のご近所に住む遠い知人を探して電話でお願いしたらしい。全く見知らぬおばさんが傘をさして迎えに来てくださった。
そのお家で親切にしていただいて、炬燵に入ってゆっくり過ごさせていただいた。おかげで無事合格できた。

今ならば、SNSで助け舟を求めるという手があるが、あの当時での父親のネットワークをすごいなあと思う。
多分、すごい焦ったんだろうな。すごくわかる。校門で降ろして帰ってきたことをすごく後悔したんだろうな。母からも糾弾されたんだろうな。
藁をもつかむ思いで電話したに違いない。
親心だと思う。有難いなと今更思う。

完全に忘れていました。
まるで山で遭難したみたいに寒くて心細かった15歳の私。
今回、出逢い直したら、「あのお家の炬燵、ほんま温かかったな~」と、心がじわ~と温かくなる。

改めて、この大雪を驚いて見ているだけではなく、雪もそうだがどんな災害が起きるかはわからない。普段から何か準備できることはないのだろうか。そう思うのです。


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