一枚の自分史:ビアクにて散華されし命を思う
二〇二一年十一月十七日、奈良九品寺会館「三蔵」のヒーリングルームプラムでの初イベントで「点描曼荼羅てんてんと境内散策」に伺いました。
ランチの後、境内を案内していただきました。これまでも葛城古道を何度も歩いて、こちらのお寺はその終点でした。いつも勝手に野仏さんを見せていただいていましたが・・・。
今回は奧山の「千体石仏」をご案内していただきました。化野の念仏寺以上かと思う夥しい数の石仏です。これまでは、こちらのお寺の深い魅力的なところにまで行きついていなかったことに気が付き、今回のご縁に思わず感謝しました。
夕方の月が上がる頃まで、プラムでお茶を頂きながらお話をしました。お話は尽きることがありませんでした。
もう一つ、どうしても書いておきたいことがあります。裏山には戦没者の方々のお墓がありました。その前には鳥居があり、英霊を祭っている、その雰囲気に心打たれました。入るなり、ギュッとくるものがありました。
一基一基には、最期を遂げられた日と場所と行年が記されています。何故か一基づつそれを見ていきました。「そうですか。お疲れさまでした。そうですね。大変でしたね。ありがとうございます」とそれぞれにご挨拶していました。
その中に、ふと目に留まった昭和十九年七月十五日、ニューギニアビアク島マンドンにて ○村○夫中尉 行年二十四歳の文字が刻まれているお墓がありました。父と同じ歳、しかもビアク島、時期的にはどうなのだろうか?
この遭遇をなんと受け取ったらいいのだろうかと、不思議な気持ちになりました。頭を垂れて、祈るしかありませんでした。
帰宅して調べてみました。八月二十日ビアク作戦は終結とされています。七月十五日ということはほぼ最後まで戦われたのですね。
父もビアク島作戦に参加することになっていました。
マラリアを発症していてその作戦には参加することはありませんでした。その戦いに赴いていたら玉砕していた。命拾いしたとよく語っていました。病身のままに昭和21年に帰還することはなかった。私は生まれていませんでした。ほぼ20人の今生きている人の存在はありませんでした。
父が参加する予定だった作戦で代わりにビアクに征かれ、帰らぬ兵士がおられます。その方のことは何もわからない。だからでしょうか、同じ戦地に没した方のお墓には特別な思いがわくのでしょう。手を合わさずにはいられないのです。どうか、その方のお墓に参れますようにとお念仏します。
呼ばれたように思いました。どんなご縁があったのでしょうか。合掌
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