【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~第四章 決めたら、必要な情報は向こうからやってくる。
決めたら、必要な情報は向こうからやってくる。
決めたら、必要な情報は向こうからやってくる。
父の戦争の物語を書こうと決めたら
そのための情報が不思議なことに集まります。
こんなことが起こるのですね。
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都島に出掛けたときです。
駅から降りて、工業高校を過ぎていくと
目に飛び込んできたのが
不思議なオブジェのような大木の残骸でした。
焼夷弾を受けて焼け残ったという
かつては駒繋ぎの樟(くすのき)と呼ばれる
大阪府の史跡とし天然記念物に指定された木でした。
その大きさゆえに爆撃の際の標的にされたことで
このような姿に・・。
異様な姿に一瞬にして惧れを抱きました。
惧れながら樟のある櫻宮御旅所にお参りして鳥居を出るや
言わんこっちゃない・・・
いきなり大爆音に恐怖を感じ
金縛りにあったように動けなくなり
またです。
誰かが嗚咽をあげて泣いています。
私が泣いているのですが、私ではありません。
その上空は、伊丹への航空路となっているらしく
次々と飛行音を立てては通過していきます。
私は、私です。
他の誰でもない。
やがては収まりますが・・・
そばにいた友人が
「きっと書いてほしいのやね」
「書くなら、よく調べて書いてね」と言う。
父のことは書いてもここのことは書かない。
そう確信している自分がいました。
そのあとはその日のタスクを果たして
すっかり忘れていました。
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数日して
あれは、何だったのだろうと気になって
大阪大空襲の記録を少し調べてみようと
ネットで検索してみたのです。
意外に、記録は少なくて
出会ったのが「大阪市内で平和と戦争を考える」というサイトでした。
https://jinken-kyoiku.org/heiwa/bun-takenaka.html
大阪市の教職員の方々が子供たちに伝えるために
大阪市内の戦争遺跡や戦争体験をもとに
戦争と平和について考えるために集めた体験集がありました。
そこで見つけたのが
「都島の空襲 昭和20年(1945)6月7日」T.Mさん
小学校1年生当時の空襲の体験を書いたものでした。
とてもはっきりとそのあとの終戦の想い出などが書かれていました。
読み進めるうちに目を見張りました。
「翌年21年2月頃、昭和17年に徴用でインドネシアのハルマヘラ島へ召集されていた父が復員してきました。
あちらこちらで戦死公報を聞く中で父も駄目かなあと思っていた矢先のことでした、夢のような気がしました。
父の話では和歌山県の田辺港へ着きすぐに実家の三重県尾鷲へ無事を知らせ大阪の空襲を聞かされ急いで都島へ帰ったが焼け跡を見て驚きもう私達は死んでしまったのかと思った、すぐに母方の親戚東淀川の淡路へ行き私たちが無事だったことが分かったそうです。
南方も食べるものが無く蛇やトカゲやねずみ、など食べられるものは何でも食べないと生きて帰れなかったそうです。皆栄養失調で倒れていったそうです。
無事で帰れたのですが現地からマラリアに罹ってしまい高熱に苦しむ毎日でした。」
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そうだったのか・・・。
確かに、空襲のことを書くことになるとは全く思わなかった。
ハルマヘラ島に繋がるのですね・・・。
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早速、サイトの責任者さんにメールで連絡を取りました。
手記を書かれたT.Mさんは、82歳になられているはず・・・
お元気でいらしてほしい。
すぐに、お返事をいただきました。
T.Mさんはご壮健で
今でも小学校で戦争体験をお話しておられるとお聞きしました。
小躍りしていました。
後は、おつなぎいただいて、お会いしていただけるか、
まだ、不明のままです。
それから、もうかれこれ10日以上経っています。
まるで恋人からの電話を待つような長い日々でした。
ご縁がないのかしらと思い始めたころ、お電話をいただきました。
想像していたより若々しいお声でした。
あたたかな声の方でした。
なんだか心にしみてきて、涙がこぼれました。
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来週はお会いしてきます。
どんなお話が聞けるのかドキドキします。
しっかりと資料を持参しようと思います。
結果はまた書きますので
お読みくだされば喜びます。
1945年6月7日の空襲で都島区は大きな被害を受けました。
大阪府の天然記念物第1号に指定された八幡宮旧跡の楠の大木も
焼夷弾を受けて枯れてしまいました。(都島区善源寺)