のりっきいの自分史:魂のさすらい時代
親の愛情との相殺
はっきりと物心がついた頃からたぶん六、七歳ごろのことです。
母親から「産まんとったらよかった」とか「お前は出来が悪い」とか「何をやってもちゃんと出来へん」とか「役立たずとか」「ほんまは産むつもりはなかった」とか「お姉ちゃんと比べてほんまにお前は不細工や」など、毎日のように言われていました。そして、同時に手が出たのです。
怖かったこともあるでしょうが、それでも、私は母親の愛情や承認や優しさを子供心に欲しかったのでしょう、彼女の言うことに何でも素直に「はい」と答えていました。それを高校を卒業するまでずっと続けていた自分がいました。
本当に自分でも役立たずで、醜くて、生きている価値のない人間だと信じていたのです。
母が55歳、父の会社の定年退職と同時に、素人ながら子供用品店を経営することになりました。それは私が小学校五年の時(十歳半頃)でした。
そのときから、家事全般は、六歳年上の姉ではなく、私の仕事となったのです。
それまでも幾ばくかの家事を負担していましたが、それからは予算内での献立のプランからすべての家事が私に圧し掛かりました。当初は途方に暮れて、周りの大人に援けてもらって凌いだものでした。
家事のすべてに加えて店の手伝いに明け暮れて、高校卒業するまでは学校と家との行き帰りだけで、放課後のクラブにも参加することができず、学生時代を謳歌するなんて夢のまた夢でした。
愛着障害の20代
会社に勤め始めた頃、その会社で「日活のニューフェイス」というニックネームのある男性とお付き合いをすることになり、一年程した後、彼が地方に転勤になりました。
彼は私にプロポーズをし、両親に結婚の申し込みのために家に訪ねてきてくれました。
その時、彼は二十二歳で私は十八歳の終わりころだということもあり、父は彼に「 もしノリコが二十歳になるまでに彼女の気持ちが変わらないでいるのならその時また考えましょう」という言葉で体よく彼からの申し出を断ったのです。
このことは、親のコントロールだとは必ずしも思えないことがその後に起こることになります。
その彼が、地方転勤になって五ヶ月後ほどして、私も若かったのでしょう。その次の年の春、 新入社員で入ってきた一人の男性 T と付き合うようになったのです。
私には若すぎるという父の言葉は確かに正しかったのでしょうね。
会社に勤めるようになっても、帰ってから店を手伝うということは続いていました。無限に続きそうな自己犠牲のような生活から抜け出たいと思っていた頃に、 T から一緒に住もうという申し出があり、私は渡りに船と二十歳になってまもなく家出をして、彼と同棲をしたのです。
しかしその数ヶ月後、私は彼から騙されて捨てられることになります。
彼が去ってから十日ほど経って、 アパートに一人残された私のところにT の婚約者の母親が訪ねてきて、分厚い封筒を手渡されました。 その中身はすぐにわかりました。「 馬鹿にしないでください」その封筒を相手をめがけて投げつけていました。
私にとっては捨てられた騙されたということ以上に、自己尊厳を土足で踏みにじられたような気がしました。
Tの子どもを妊娠していましたが、おそらくそれらのストレスが相まったのでしょう。数日後、私は流産という現実を迎えました。
私にとってダブルorトリプルパンチになったのでしょう。気がつくと私はガスの栓をひねっていました。運よく隣の部屋の人が臭いに気付いて、自殺は未遂に終わりました。
自殺に失敗した後、まだ自分が生きていくという気力が見いだせない十一月の中頃、会社からの帰り、夜遅く横断歩道を渡っていた時、 50km で走ってきたモーターバイクにはねられました。
二日後目覚めた時、私は病院のベッドの上でした。なんと私は約二日間意識不明だったのです。
その次の日に目が覚めるとベッドの横には父が、足元の方には母が、そして警察の人がいました。
警察の人が帰った後、母は「子宮癌が見つかったから入院するからこちらには来れない」と言い、父からは「2ヶ月ほど、ニュージーランドに行く船に機関長として乗る。ノリコをこんな状態で置いていくのは辛いけれども仕事だから勘弁してくれ。申し訳ない。頑張れよ」私はやはり一人でした。
右半身打撲で1ヶ月半ほどはベッドの上の生活を余儀なくされ、やっと松葉杖で歩けるようになった時、医者から「子供を産むことや、普通に歩くことは諦めた方がいい」と言い渡されました。
その頃の時代背景からいって、女性が子供を産めないとか、片足を足を引きずらないと歩けないようなハンディキャップを持っていることは、女性として、人として価値が無くなったと同様であると、真剣に私はその時思いました。
約半世紀以上の前の日本の社会における常識から考えたら、お分かりいただけるのではないかと思います。
医者の宣告を受けてからの私はどのようにしてこの世を去るかばかり考えていました。生きている何の理由も私は見出すことができなかったのです。
だって男に捨てられ、騙され、傷つき、自分の尊厳を踏みにじられ、最後には子供の産めない体になって、足が不自由になってしまったのですから。
その日の夜、私は病院の屋上に行き、街の夜景を見ながら人生を終わらそうと思いました。高めのフェンスの前に立って、太ももから足先までギブスの右足をフェンスの上に置き、松葉杖で自分の体を支えながら、左足を半分ほどフェンスにかけた途端、OMG! 後ろにひっくり返ってしまいました。そのとき私の目の中に飛び込んできたのは夜空に煌々と光る大きな満月でした。そこには声を立てて大笑いをしている私がいました。涙を出して笑いながら、自分のやっていた光景を思うと、なんだかバカバカしくなったのを思い出します。
その後、二十四歳。知人から紹介されて働いた会社でOと知り合い最初の結婚をしました。
このOとは、妊娠五ヶ月で切迫流産しかけて、医者から一週間の安静を言い渡されて休んでいると、会社から帰ってきて夕食の準備ができていないという理由でお腹を蹴られます。その現実から私は離婚を決意し、二十五歳の時、長男を一人で産みました。
二十八歳の時に初恋の人Mとの再会と再プロポーズで遠距離別居結婚という形が始まりました。
そんなある日、お風呂場から三歳の息子の泣く声が聞こえてきました。湯船に入るのを嫌がったからお尻を引っ張たたいた。息子の小さなお尻には大きな手の跡が残っていた。 この時、私は即座に彼との離婚を決めていました。
長女も一人で出産しました。
弱い者に対して暴力を振るう、特に男性には拒否反応を示す傾向があるようでした。親との確執がそこにあったのかもしれません。その決断は正しかったと今でも思っています。
その後、自暴自棄で投げやりな人生を送りました。淋しさを埋めてくれる人を求めて飲んで遊んだこともありました。
九時五時で会社に勤め、子どもをピックアップして、五時十時は母の店、十二時まで家事の生活でした。その頃は母子家庭には世間は冷たく、差別され村八分の目に遭い、上の子はいじめられていました。
これらの自分に起こった不幸を親のコントロールのせいにしていました。
後日、それはすべて自分が決めていたと知ることになりますが、それまでにはまだまだ時間がかかりました。
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