一枚の自分史:恩師「愛コンタクト」
一九六五年に大阪の府立高校のⅠ高に入学した。その頃のⅠ高には名物教師と言われる方が数人おられて、名物授業をなさっていた。
その中でも私にとってのピカイチが古典の樺山さんだった。先生とは呼ばずにさん呼ばわりするのも、その頃の生意気を気取る私たちのブームだった。
私を古典好きにさせた先生はシルバーグレィのふさふさの髪、なにしろ学生結婚されたとかいうしで、まさにその存在がロマンスグレィだった。その雰囲気に射抜かれていた。
専門は「長恨歌」だった。禁欲真っ只中の受験生相手に玄宗皇帝と楊貴妃のからみを微に入り細に入り授業をする名物教師だった。
授業のレベルは高かった。難問を問うてくる、
「どうや〜!分かるもんおるか〜?」
と教室中を見渡すが、
「やっぱり無理か!難しいもんな〜!」
とニコニコ! いや、ニヤニヤかな?
クラスメイトたちは目が合って当てられないようにと下を見ている。
私はもちろん回答できる。先生の顔を真っすぐ見て、当ててとアピールすると、
「君なら解るな? ちょっと待とれよ!」
とアイコンタクトが返ってくる。しばらく他の生徒の反応を待って
「君は解るな?答えなさい」
と振ってこられる。
もちろん! 答えられますとも! このために勉強しているようなものだった。
これぞ! 相思相愛の師弟愛コンタクト!
すいません…。調子乗ってました。
以上は、今となっては、本当にあったことか、それとも私の作り上げた妄想だったのか定かではない。
ただ、本当にやったことは、古典作品ごとの解説付きの参考書を一週間で一冊の勢いで片付けていた。やっていたことは解釈のみだったが、とにかく解釈本を読みまくっていた。
そのせいで、他の科目はおろそかになり散々な成績となった。現役合格できたことが不思議だった。
好きなことだけをして受験を乗り切るなんて無謀なやつだと、あの頃の自分には、え〜根性してたね〜と告げたい。
今の自分には、相変わらず、あの頃と変わってへんなぁ〜、成長したのかしていないのか、何回、痛い目に会っても、本質はなかなか変わってへんなぁとあきれる。
今さら変わりようがないなら、上手く付き合うしかないと居直ることにする。
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