【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~ 第十章 病院船氷川丸での12日間
一九四六年(昭和二十一年)六月 五日、内地帰還の為、病院船氷川丸に転送
一九四六年(昭和二十一年)六月 十七日、大竹上陸。同日、国立病院に収容、同日除隊
父さん
横浜港まで氷川丸に乗りに行ってきました。そこに立ち、デッキで瞑想をして、昭和二十一年六月の十二日間にタイムスリップしてみたよ。そこで感じたこと、資料などから見えてきたのは大切なことでした。生きているうちに伝えたかったことでした。
十一月二十三日、新幹線で新横浜まで、地下鉄で改札口の駅員さんに道順を相談をした。とことん付き合ってくれる。意外である。ホスピタリティは大したものである。横浜地下鉄なかなかやるなと思った。
桜木町着。前回、麻布大学に取材に行った時はここを中継した。その時のことを思い出した。何とも言えず心細い一人旅だった。
今回も一人旅。秋晴れの祝日、コロナ明けだというのにびっくりするほど人が多い。どのバスに乗ればいいのかもさっぱり分からないので、タクシーに乗った。運転手さんは最高の人物だった。車窓の歴史的な建物についてガイドしてくださる。浜っ子気風を自負している。大いに自慢してください。
父は七十五年前、昭和二十一年六月五日~十七日、病院船氷川丸に乗って復員した 。二十五歳の当時の父に会うために氷川丸に乗りに来たことを告げると 、「それはいいことだ」と優しいリアクション。そして降車する時にも「良い時間を過ごしてくださいよ」と声をかけてくださった。
とてもいい旅になる予感がした。
氷川丸はまさに海に浮かぶ文化遺産だった。祭日の一日を大勢の子どもたちや市民が船上で楽しんでいる。B デッキの受付でシニア料金三〇〇円を支払って乗船する。
一九三〇年建造された貨物船。憧れのシアトル航路を運行する豪華客船だった。一九四一年にシアトル航路が閉鎖された後、海軍に徴用されて病院船に改装され、終戦まで、病院船として南方諸島からの傷病兵推定三万人近くを輸送した。豪華客船、病院船、復員船、そしてふたたび豪華客船と変遷を経て、今は横浜港に記念館として係留されている。
近くは二〇〇八年の改装でかなりリニューアルされている様子。青い海、青い空には映える。九十歳を迎えてもなお美しい船だと思う。
https://hikawamaru.nyk.com/history.html
白い船体に赤十字のマークの病院船、引き揚げ船の風情はむろんどこにもない。
おそらく当時のままであろう箇所を探しながら見学順路を進んだ。解放された甲板やデッキはあらかたきれいに手が入っていたが、天井などにはおそらく建造当時のままを残す風情があった。見学ルートを離れるわけにはいかないので進入することはしなかったが、かなり乗り出してそれ以外のところにも注意を払いながら進んだ。
父さん
近くまで行ったら教えてね。
そう呼びかけながら進んだ。
Bデッキはほぼ二等客室 、Aデッキは一等客室や特別室、操舵室へと進む。途中、この船が背負ってきたものを解説する展示もあった。客船時代の当時のままに改装保存をされていた。レトロな階段があったり、高級感が満載だった。
父さん
ここを上り下りしたの?どんな船旅だったの?
この優雅な階段を使うことは無かったのだろうか。どうもピンとこなかった。本当にここに12日間も居たのだろうか・・・。感じようとしても何も感じない。声も聞こえてこなかった。
観覧エリアを進んで、最上階の船長室操舵室に至った。最高の天気で、海はブルーに輝いている。船尾のオープンデッキの最後尾で瞑想をした。息を整えて、風を感じ、船の揺れに身を任せた。
父さん
どこにいるの?
意識の中に入ってみようと試みた。浮かんできたのは、少し広い部屋に多くの人たちと並んで寝ている様子。場所は船首か船尾らしい。
あ! そういうことか・・・、父はこの船に乗船する時には多分担架に乗せられていたんだ 。そして十二日間とも、高熱で意識朦朧とした中で過ごしていたのではないだろうか。
軍歴証明より
一九四五年(昭和二十年)八月十四日、終戦
同年九月十八日、肺結核・マラリア熱帯熱(公病)により、カタナ患者療養所入院
同年十月二十七日、第三十二師団臨時第二野戦病院に転送
一九四六年(昭和二十一年)四月、第二十一師団第二野戦病院に転送
一九四六年(昭和二十一年)六月五日、内地帰還の為、病院船氷川丸に転送
一九四六年(昭和二十一年)六月十七日、大竹上陸。同日、国立病院に収容、同日除隊
父ははっきりとした意識のないままに十二日間を過ごして、また担架に乗せられて、大竹の病院に収容されたのではないだろうか。たぶん、祖国の地を自分の足で踏んでいないのではないか。
内地での食糧事情は最悪だったが、 船ではそれなりの食事が出ていたと言い及んでいる記述が展示された資料の中にあった。飢餓の島から船に収容されて、何を食べていたのだろう。どんな治療を受けていたのだろう。どんな気持ちでいたのだろう。
相模原の麻布大学(旧陸軍兵器学校の跡)を訪ねた時の多くの当時の若者の息吹を感応したときのように伝わってくるものがなかった。
そうか、本当に重篤だったのだろう。父の意識の中に潜ろうとしても、そこには高熱に喘ぐばかりで意識がなかったのだろう、何も感じなかったはずだ。
ただ、ジリジリとした暑さと船の揺れだけを感じていた。目がくらみ、体が揺さぶられた。
目を閉じて、父の意識に潜っても何もないはずだった。父はデッキで風を感じることもなく、海も見ていない、祖国の島影に感動することもなくて、あの優雅な階段に立つこともなかったのではないだろうか。
瞑想をした甲板にも、多くの人たちが並んで寝かされているイメージが浮かんだ。比較的軽症な人は、この場所を憩いの場としていたようにも感じたりした。
軍歴証明を上げて、記述に氷川丸を見つけて始めて私も弟も氷川丸で還ってきたのだと知った。父は氷川丸の事を一言も言うことがなかった。もしかしたら、自分が乗せられて還ってきた船が氷川丸であるということも分かっていなかったのではないだろうか。
帰還した後も、国立病院で数か月を過ごし、戦争が終わって一年以上もかかって故郷の村に帰った。村では父は帰らぬ人になっていたのだろう。いきなりその痩せさらばえた姿を現して幽霊騒ぎになったそうだ。そうだろうと思う。
瞑想を終えて、順路を船底へと辿り、機関室まで降りてきた。そこで、やっとこの辺りにいたのかもしれないと思った。そりゃそうだ、戦争が終わっても、軍隊は階級社会、一等室や二等室は上官用で、いくら重篤であっても、下士官は海も見えない船倉に近い三等室だろう、そんなに好待遇を受けられるはずはないだろう。
ハルマヘラ島からは一割の人しか帰還できていない。そのうちの二割が戦死で、八割が餓死、病死だった。三万人と言う多くの傷病者を収容し、治療し祖国に送り届けたのがこの船だった。その三万分の一が父だったのだ。
観覧コースの最後で展示エリアがあった。病院船当時の病室の見取り図があった。瞑想した甲板アッパーデッキは、奇しくもそこが病室になっていたし、患者休憩室にもなっていた。
そして父が寝ていたのは、船尾の病室のどこか。まさに座って瞑想した場所がそうだったのか?あるいは、その下だったのか?
とてもいい天気なのに、風もないのに係留されているだけなのに、ずっと揺れを感じていた。私は父の感じた揺れを感じるためにやってきたのだ。
父さんやっぱり教えてくれたね、とっても重篤だったこと。よく還ってこれたね。
生きて還ってきてくれてありがとう。
生きているうちに言えてたらと今さらながら強く思う。大切なことはいつも後からわかる。だから、こうして書いて置いておこうと思う。
長くなりました。この後、コロナの第6波がやってこないうちに、山口県の大竹に取材に行く予定でいます。
一九四六年(昭和二十一)六月十七日、大竹上陸。同日、国立病院に収容、同日除隊
同時に、中之島図書館などで大阪船場島之内の丁稚時代を遡っています。資料がどこかにあるはず、たどり着けないところで頓挫しています。
そして、肝心のハルマヘラ島には辿り着けそうもありません。次号(3月1日)で完載予定ですから、ハルマヘラ島は永遠に遠いところになりそうです。でも、やれることをやるつもりでいます。