一枚の自分史:セミナーハウスでの同窓会
卒業30周年の記念同窓会は、2002年9月秋、52歳のこと、飛鳥にある母校のセミナーハウスで開催された。まずは、若いゼミ生たちの研究発表を聴いた。内容はさっぱり覚えていない。私たち国文学科68年入学生、 U教授と若いM准教授のお二人のゼミの大学院生らが受講生だった。
2002年といえば、そのころはゆとり教育が失敗だったのではと囁かれていた。 世の中がトライアンドエラーの連続だった。 娘は就職超氷河期の中を苦しい活動を強いられていた。遡って私の就活は女子大生亡国論などというものが飛び出すような時代だった。書類選考で落とされて面接まで行くことすら厳しかった。会社に入っても女性はお茶汲みプラス男性の補助的な仕事しか回ってこなかった。最後には会社のリストラの片棒を担がされた。学生時代に夢見たような現実は実際はなかった。他のみんなもよく似たものだったろう。卒業して30年が経っていた。
その頃、私は採用を担当していた。求人のために母校を毎年訪れていた。 その度に国文学科合同研究室を覗くと、 そこにはいつも恩師の中で一番若手だったU教授がいらっしゃった。
「君らは今年で卒業30周年になるやな、 記念の同窓会をやらへんか。 30周年の記念同窓会をやらんかったら40年も50年もやれんようになるで」
そう 声をかけられた。
重ねて 恩師は、
「 名簿も用意してあげよう、何か手伝えることあったら僕もやるからね、 君がやってあげたらどうや」
現役時代は 成績も良くなかった、全く目立たなかった、部活ばかりで中心から少し離れた存在だった私がお世話を引き受けることになるのだから、世の中はわからない。
話が進んで、会場探しではそろそろ宿泊しても問題がない年齢なのではないかと考えた。 その方が地方からもやって来ることができる。私は現役時代に明日香のセミナーハウスを使ったことがなかった。 それが使えたらいいと思った。U教授は協力してくださるとおっしゃっていた。早速、相談してみたら教授は、
「セミナーハウスは、何か教育的なことに使う場合しか使用できない、ならばこうしたらどうだろう」
思ってもいなかったアイデアが飛び出した。
「恩師の講義をもう一度聴くなんて嬉しいです。K先生にお願いできませんか。K先生ならば、同期生たちは全員がお世話になっている。きっと喜ぶだろうと思います」
U教授は、
「いいね。K先生にお願いしてみよう。きっと喜んで引き受けてくださるだろう」
「ところで、現役の学生たちにも声をかけていいかな。セミナーハウスは現役の学生の勉強の場であるという建前があるのでね」
「 もちろんいいです。よろしくお願いします」
大阪の梅田あたりで会場を探して 2、3時間の宴会でお茶を濁すような会は元より考えてはいなかったが、それは予想をはるかに超えたイベントだった。
当日はK教授の体調が優れずに講座は院生たちの発表という形になった。夜は現役との交換会となり、さしずめ学生コンパのようだった。同期生たちは学生時代に戻って楽しんでいた。翌日は飛鳥を巡り、大人の遠足も楽しんだ。 晴れ晴れとした気持ちで裏方を楽しめる自分を誇らしく感じていた。そんな私を同期生は、
「いい女になったね~、昔は話しやすい可愛いだけの子やったのにね」
と評した。実は私もそう思っていた。
その時は母が入院していた。他にもピンチが団体でやってきていた。にもかかわらずよく頑張れたなとしみじみ思う。自分のこと以外に気持ちを向けることが救いになったんだろう。
卒業40周年記念同窓会も当然のように世話役を引き受けたが、 前回のように大事にしたくなくて、U教授には声をかけることなく、大阪の梅田で簡単に気楽なもので済ませた。他の恩師がたも鬼籍の人となっていた。
40周年記念同窓会の後、ほどなくしてU 教授が亡くなられたと聞いた。 苦い後悔ばかりが残った。 高校の恩師の時もそうだった。 同級生の時も同じだった。まさか三度も同じ悔いを残すことになるとは思ってもみなかった。
だからこそ50周年記念同窓会には少し趣向を凝らしたものにしようと思っていた。なのに新型コロナ禍でまだやれないでいる。
50周年記念同窓会はどうしても開催したいと思っている。宿泊がいい、一夜をそれぞれの青春時代を懐かしんで語り合う、そんな会をしたい。誰かに相談をして、何人かを巻き込んでみよう。
「50周年をやらなかったら、 60周年、70周年は絶対にないからね。君がやってあげたらどうや」
U教授の声が届いてくる。