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一枚の自分史:母にしてもらったこと「ソーイングセラピイ」

母からしてもらったことを思い出す。
夜中に目が覚めると 深夜に ミシンをかけている母の姿があった。 遠足の朝だったりと、 何かある日は必ず縫い上がったばかりの新しい服が枕元にたたんで置かれていた。

母は洋裁を東京の学校で学びながらも、それを職業にはできなかった。
もしかしたら私たちの服を縫うことが、私がソーイングをやるのと同じようにセラピィになっていたのではないか、そんなふうに急に思えた。

日々の仕事で忙しい中、夜中に服作りをする。今ならよくわかるが、服はすぐできるものではない。まずは生地を選んで、製図を起こし、裁断をしてミシンをかけて、アイロンをかけての工程がある。 しかも母が縫ったものはそれなりに手が込んでいた。そりゃそうだ、私のようなホームソーイングではない。 服作りのプロだった。 プロになるはずだったのだから。
ミシンかけの前にも生地を買いに行ったり、製図を用意したりいろんなことをしていたということに気づいた。そして日々の忙しい中でギリギリにミシンを夜中まで踏んでいたんだ。ただミシンを踏んでいるだけではなかった。そしてしてもらったことは服を縫ってもらっただけではなかった。 

人の人生ってわからない。何年もかけて自分の夢を達成するつもりだったのだろう。 山村からいきなり東京に出て、女中奉公をしながら最新式の洋裁を学んだ。戦争が終わって、高校の家庭科の先生をしていた。それで自立できたのに、結婚しないという選択は田舎では許されなかった。一度しか会っていない人と結婚して大阪に出てきた。
父は大きな事業欲を持っている人だった。母はそのために、自分のやりたいことを封印して、父の事業の手伝いや帳面付け事務方をやっていた。その合間を縫っての家事育児だった。

睡眠時間を削って服を縫う。しかも、何かイベントのある前には必ず新しい服が用意された。もしかしたら母はちょっと見栄っ張りだったのかもしれない。私たちにイベントごとに新しい服を着せる。そのことは、プロを目指した母のちょっとした矜持だったのではないだろうか。今さらそんなことを思う。 母さん そうやったんやな。 

母がお出かけで着ているちょっとおしゃれなスーツや、私たちに縫ってくれた服は買ってきた服と全くわからないぐらいかっこよかった。そんなものが家で作れるとは思っていなかった。
縫い物ができたのは、私たちが寝てしまってからの夜中しかなかったのだろう。だから、本当に母が縫ったとは思えてはいなかった。
「嘘よね、だって縫ってるとこ見たことないし」と思っていた。
でもよく考えてみたら、あの頃はお店もなくて、あったとしたら百貨店とか洋装店に行くしかない。だとしたらとんでもない贅沢で、我が家はそんな暮らしぶりでもなかった。ということはやはり母が縫っていたんだ。アルバムに写っているものはどう見ても、百貨店の服かはたまたプレタポルテだ。かなりのプロだ。

 少し大きくなって、私はきっと母の血を汲んでいたのだろう。 中学生ぐらいになったらもうすでにミシンで小物を縫って遊ぶことを覚えた。
いつも母が使っていたのはジャガーの足踏みミシンだった。高校生になると新式のジグザグミシンを買ってくれた。
学生時代、ダブルスクールして、近所にあるドレスメーカー女学院に夜に通った。そこで基本的な洋服作りができるようになると、自分のものは自分で縫った。妹のものや友達のものも縫った。彼女たちが着ている姿を見るのが 嬉しかった。そんな私を母は目を細めて見ていたに違いない。

今、 これまでやっていた仕事を少しずつ 終わらせて、できた時間を ソーイングに当てることができるようになった。今さら難しいことはしたくないから簡易洋裁だが、それなりに満足のいくものになっている。
私は服を縫うことを「私のソーイングセラピィ」と呼んでいる。生地を手に取り、これで何ができるか思いを巡らす、生地を広げていかに効率的に裁断をするか考える、そして無心でミシンを踏む。 時間を忘れて。その時間が無性に楽しい。 私にとってのセラピィなのだ。

どんなにクタクタになっていても眠くても、夜中にカタカタとミシンを走らせていた。それがきっと母のセラピィだったんだろう。
そして、 次の日の朝、喜ぶ娘たちの顔を見ることが最高の幸せだったんだろう。

母からしてもらったことは無上にある。


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