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一枚の自分史:ニューヨークの思い出

2014年11月64歳の秋、日本でも世界でも国際関係においても経済的にも今から思えば小康状態を呈していた。ニューヨーク国連本部、ナショナルスクールで日本語を学習している学生たちの秋のお祭り、文化祭のようなものか、マツダミヒロさんの絵本ワークの講座のお手伝いに行った際のことだ。

 写真には私と仲間と日本語を学んでいるニューヨークの学生たち、「漢字で感じる」のネーミングが学生たちに響いているのか不明なイベントだったが、呼び込みをしたせいもあって私たちのブースは結構人気があった。
選んだ漢字のカードとイラストのカードの意味が合っていたらマル、間違っていたらペケを体で表現してもらう。盛り上げ効果はあったはずだ。

 当時はまだキャリアカウンセラーの仕事をどんどんやっている頃だった。 1年に1回ぐらいは海外を旅したい。ただの観光旅行ではつまらないと思っていたので、マツダミヒロさんの『国連本部で中学生達に絵本を作るワークショップをやります。アシスタントを募集しています』という呼びかけに、何も考えずに申し込んでしまう。さて、参加表明をしてからどうしようと考えた。
 まずいくつかのハードルがある。経済の壁、まず語学の壁、そして一人で行動するのは不安というメンタルの壁があった。
 経済の壁は、老後の資金を切り崩してしまって大丈夫なのかという不安があったが、かかる費用の分だけ新しい仕事が入ってきたので杞憂に終わった。共同でアパートを借りて行動を一緒にする仲間がすぐ見つかってメンタル面でも問題なし、最後まで語学の壁が立ちはだかっていたが、もうこれは一朝一夕でどうにかなるものではなかった。気が付けば、なんとかなるさでひょいと飛行機に乗ってしまっていた。

 ワークショップでは、一人の少年を担当し、簡単な英語と日本語でやり取りして無事になんとか楽しく役割を果たすことができた。
 「英語はさっぱりだからどうしようか」と誰彼なく不安を口にしていた。そうしたら 誰かが助けてくれるだろうという作戦でいくことにした。師匠からはイベントが終わった時、一番よく喋っていたのは私だと言われた。そう、それも大阪弁でね。 
 今から思えばよく思い切って行ったものだ。日本語しかできない私でもオッケー、むしろ関西のノリで十分やっていけた。一週間いると英語が耳に馴染んでいく。なんとなく理解できてふんふんで通用した。大したものだ。

 国連本部も摩天楼も タイムズスクエアもブロードウェイも自由の女神も マンハッタン島もセントラルパークも そしてグランドゼロも行った。
 中でも、師匠の講座をサボって行ったメトロポリタン美術館とMOMAは圧巻だった。メトロポリタン美術館は、あまりにも広大で膨大な国宝級、世界級のアートが何気なく展示されていて、あまりにもニュートラルすぎて通り過ぎた後に気付いては興奮した。感動の振り幅が大きすぎて、脳天が振り切れてしまった。
 MOMAでは感動が振り切れすぎた後だったせいか、今度は何を見ても冷静だった。美術の教科書に乗っているような名画がそこかしこに手の届くところにあるわけだから、そこは興奮するところだったのに、あんまり普通にそこにあるからスルーしてしまう。ここでも通り過ぎてから、もしかして、えええ!の連続で、日本では考えられない美術品のおおらかな扱いに大陸を感じた。終始、ニューヨークのスケールの大きさに度肝を抜かれていた。

 また、さすがは自由の国だ、それほど人には興味ないらしい。ここでは年齢や性別や背景にとらわれすぎずに自由に生きている。自立して生きている。いいさ、どうせ誰も見てやしないと思うと肚がすわる。ここでは面倒くさいことも自分で決めるしかないし、ここでなら同調圧力にも屈しないだろうなと思えた。

 たった6年ほど前のことだけれど、確かに行ったはずなのに、まるでなかったみたいなニューヨークの思い出。今の生活とはあまり遠ざかりすぎた。
 ニューヨークを一人歩ける自分のことを結構かっこいいと思ったように、二十歳になった孫と美味しいお酒を飲むために、10年後も自立できているおばあちゃんでいることにしよう。



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