一枚の自分史:駅から始まるストーリー・・・天下茶屋
誰しもが人生において心に残る駅を持っている。
そう考えたとき、私にとってその駅はどこかと問われたら、
南海電鉄本線・高野線の「天下茶屋駅」と答える。
私が育ったのは大阪の下町の天下茶屋。最初に駅ができたのは明治18年。
駅と隣接の車両工場が戦災被害にあって、昭和23年の新駅舎として復旧している。できた時は洋風の赤い屋根のおしゃれな駅だったかもしれない。
私がお世話になっていたころは支線の発着駅にもかかわらずなにやらこじんまりとした駅で、昇降する人もお出かけ着よりは普段着の人が多く感じていた。
東西に地下道が通っていて、各ホームと繋がっている改札内の通路と、自由に行き来できる通路に仕切られていた。
駅とともに思い出すのはその地下道だった。昼間も薄暗くて、壁面には不気味なシミがたくさんついていた。
私はその地下道を通って幼稚園に通っていた。明るい出口だけを見るようにして全力疾走した。
いつまでも一人で通るのが怖くて、誰かが来るのを待ってその人に附かず離れずに通り抜けたものだった。
次に思い出すのは、駅の西にあった大きな柳の木だ。駅前からの通りは柳通りと呼ばれていた。 それぞれの通りには必ず大きな木があったそうで梅通り、松通り、橘通り、柳通りと 町名にもなっていた。
高校時代、天下茶屋駅から、昭和59年に廃線になった南海電鉄電鉄天王寺支線に乗り、天王寺で環状線に乗り換えて寺田町にある府立の高校に通っていた。
ユーミンの歌「卒業写真」にあるように、「語りかけるように揺れる柳の下を~」朝夕にくぐった。
家まで訪ねてくれた友人が改札口から降りてくるのを迎えた。友人を送って行って、いつまでも駅の外で話し込んだ。
結婚して同じ沿線の駅に住んでいた。夫は出張がちだった。二人の子供は里帰り出産した。妊娠後期になると、定期健診に大きなお腹で電車に乗って帰ってきた。何故か天下茶屋駅まで来ると気分が悪くなって、ホームのベンチに崩れてしまう。駅員さんは優しかった。いつものことなので、「また、あんたか、大丈夫か、お母さんに電話したげよか」と声をかけてくれた。しばらく休ませてもらったら気分は戻った。
それから数年で駅は高架になり、地下鉄堺筋線とつながった。南海本線、高野線の天下茶屋駅は乗り換え駅となり、通過する大規模な駅となった。
すでに20年にもなる。母の命の終わりを予感した日、病院からの帰りに天下茶屋を歩きまわった。どこにも子どもだった私や家族に繋がるものはなかった。小学校も、中学校も暗く門を閉ざしていた。親友だった子の家は、マンションに変わっていた。
あれから、実家の後は飲食店になり、大きなスーパーとかが立ち並んでいる。天下茶屋は、幾たびも姿を変えて、昔日の面影はない。思い出のかけらもない。根無し草のような寂しさに襲われそうで母が亡くなってからは足が向かない。
見知らぬ街になって、だれもおかえりと迎えてくれなくなっても故郷と呼べるのだろうかなどと思いつつ、パソコンを開いてグーグルマップで西天下茶屋駅界隈をストリートビューで覗いていたら、美味しいコロッケ屋さんがまだあった。店主の姿もあった。まだ、あの味を覚えている。美味しかったな・・・。美味しいものが安く買える、食べられる街だった。
おかえりと迎えてくれる懐かしい味がまだありそうな気がしてきた。
駅から少し歩いてみようか、そんな気になっている。