一枚の自分史:知床、あれから援け船はやってきたのか?
1990年代、40代の頃、
会社では、2年に一回、共済会の旅行、つまり社員旅行が開催された。
行き先は、沖縄、北海道、東北、九州、北海道。
総勢300人近い団体旅行だった。
30代で、異例の中途社員としての登用だった。どこかで遠慮していた。
仕事は人一倍、義務は果たしても、権利行使はできるだけ控えていた。
共済会の旅行に参加するなど思いもしていなかった。
ちょうど子供も小さいので、2泊の宿泊を伴う会社行事に参加するのは少し気が重かった。下の子がもう少し大きくなったらと思っていた。
しかし、こちらの思惑とは別にして、仕事上、そうもいかない立場となっていた。
いつまでも、途中入社社員として遠慮している、どこかで入りきらずに、その縁のぎりぎりのところの立ち位置で仕事をしている。そんな自分に気が付いていた。
採用や若手社員の教育、寮生の生活管理、仕事はどっぷりと会社につからないとできない仕事だったから、微妙な気持ちのすれ違いを抱える日々だった。
そんな時、母が、子供達は見てあげるから、社員旅行に行ってきたらと言ってくれた。
「いつかと思っていたら、何もできないよ。思ったらやればいい。行きたかったら、行けるようにして行けばいいよ」
そう言われた。自分がそうしたくても出来なかったからねと。
社員旅行は、会社の仕事の閑散期と旅行のオフシーズンの2月だった。子供の受験とぶつかったとき以外は参加した。
印象に残っているのは、最後の社員旅行になった北海道の旅だった。
いきなり出端を折られることになる。
関西空港から、先発隊は順調に朝一番で飛び立った。
社員旅行はいつも全員が同じ飛行機には乗らない。必ず、2グループに分けた。幹部や主要なポストについている人たちは平均に二つに分けられた。一度に乗って、飛行機が落ちたら、会社の存続に響くからだ。
後発隊の乗る飛行機が着かなかったのだ。
札幌でいただく予定の昼食は関西空港であたふたと走り回って用意することになった。
百数十人分である。しかも先発隊で主な主催側のメンバーは出発していた。
残されて、いやでも矢面に立っことになった。
一泊目の阿寒湖のホテルに着いたのは夜の10時過ぎだった。
二日目、知床で流氷観光砕氷船おーろらに乗った。ところが厚い流氷に行く手を阻まれて、二進も三進も行かなくなる。 通りがかった別の砕氷船に退出路を拓いてもらって大事に至らなかったのだが、まるでこの後にやってくる暗雲を予想するような象徴的な出来事だった。
大手企業ではバブル経済の崩壊が始まっていた。本業にだけ専心してきたことで、バブルとは関係ないと思っていたところがあった。ところがご多分に漏れず、少し遅れて始まることになる。
この数年後、リストラが始まり、三つあった工場の一つは閉鎖された。
この工場には若手が多くていつも元気でだった。いつも顔を見るなり嬉しそうに声をかけてくれたものだった。
そんな工場から、最初に人が去り、建屋だけになり、笑顔は消えていく。
そして、次に、中国の無錫から大勢の人がやってきて、2ヶ月かかって、機械を解体して持って行った。
建屋だけが残されて、空っぽになったのこぎり屋根の工場の中を風が虚しく吹いてゴミを巻き上げていた。まさに「産業空洞化」だった。
その頃、マスコミでは産業空洞化という言葉がよく使われていたが、それをその目で見た人はそうはいないだろう。
工場跡地にはスポーツクラブが建っている。
そんな数年後のことなんか知る由もない。
旅行中、社員たちは、非日常を楽しんでいた。
1日目、くたくたになっている私の部屋に次々と若い人たちがやってきて、勝手にトランプとか始めてワイワイと楽しんでいる。最初は付き合っていたが、夜が更けても、終わりそうもない。いつしかその横で布団を引っ張り出して寝落ちしていた。
ワーッと声が上がると、布団をかぶって寝ている私がビクンと跳ねる。それが面白くて、余計騒ぐ。ビクン!そのうちに、 布団に潜り込んでくる輩が次々と。それでも私は爆睡していたという。次の日の朝食会場で、何やらみんながニタニタ・・・。後で聞いて、「こらー!」 本当にいたずらものたちです。
部下たちの部屋に侵入して消火器を撒く酒癖の悪い猛者の後始末やらとんでもない。
毎晩、バカ騒ぎが続くから、移動中はほとんど寝ていて道中の記憶がない。
ただ、人の笑い声を聴きながらうつらうつらするのはとても幸せな時間だった。
40代は仕事が楽しくて、2倍も3倍も仕事をしたいと思った。天職だった。
しばらくはしまい込んでいた、そんなころの思い出。
50代に入って、リストラが始まって、200人の「これからどうして生きたらいいのか?」を呪いのように受け取ってしまっていた。いつまでも後遺症に苦しむことになった。
そのこともあって、退職後は疎遠となり、賀状以外に誰とも付き合いはなくなって行った。
もうそろそろ、そんな呪いも解けてもいいころだろう。流氷は春になれば去っていくように。
一枚づつ着ていたものを脱ぐようにして、リストラの嵐を乗り越えて存続してきて、数年前に創立100周年を迎えた会社は、このコロナ下では喘ぐような日々がまた続いているのだろうか?
禍福はあざなえる縄のごとし。
コロナ禍の次は倫理資本主義の世の中が来るという哲学者もいる。
未来に希望を持ちたいと思う。
疎遠になったけれど、ご縁があればまた繋がるよな・・・。
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