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未来の視点から今を語る一枚の自分史 :奇跡の一枚に大竹で出逢えた

2021年12月22、23日、その頃、私は71歳、「永遠のハルマヘラ~生きて還ってくれてありがとう」父の戦争の物語を書いていた。

父がハルマヘラ島から氷川丸で帰還した広島の大竹市に取材旅行に出た。

新型コロナ「オミクロン株」が不穏な動きを見せていた。今のうちに動いておかないと、年が明けるとどうなるかが見通せなかった。

年が明けて、3月10日で出版を予定していたので、すべての取材を年内に終わらせておきたかった。

果たして、年が明けて急激な感染拡大が起こった。特にピンポイントで、沖縄と同じく米軍基地のある広島呉や岩国からそれらは拡がった。
危ないところだった。そのタイミングで行けたことは父からのギフトだった。そう思わずにはいられないようなことがいくつか起きていた。

冬至の日だったこともあり、まずは出雲大社に参拝して、本の完成を誓った。 鮮やかな虹に歓迎されていた。きっといい本が書けるんだと思った。

倉敷アイビースクエアで一夜を過ごして、早朝の美観地区を歩いて駅へと向かった。レンガ壁に沿って歩いていると、あ~、そうや、この街は父と二人で歩いたなと思い出した。
しかも、米子、松江は展示会の出張で玉造温泉に泊ったことも一気に思い出した。そこで、翡翠のペンダントを買ってもらった。それは唯一の父親から買ってもらったアクセサリーだった。前日にその沿線を通り過ぎながら思い出しもしなかったのだ。

その旅は父と訪ねた場所を再訪することになっていたらしい。
出雲大社に行けたことも、虹を見たことも、学生時代に訪れて憧れていたことさえすっかり忘れていたのにアイビースクエアに泊れたことも、全部父からのギフトだったのだ。

JR大竹の駅で、引き揚げ港のあった場所を若い駅員さんに聞いても、地元出身ではないのでと要領を得なかった。それでも、彼はモバイルで捜して、どう回ればいいか一緒に考えてくれた。

まずは図書館に行くことにした。10分ほどで着いた。南方からの引き揚げ港であったことは町の大きな歴史であった。ただ、舞鶴のように長い期間ではなく、短い期間だったことで、その重要な役目を果たしたという歴史はこの町では間違いなく風化が始まっていると感じた。ありがたいことに、地域の歴史は図書館にはわずかだけど残されていた。
職員さんは、これまでに調べに来る人がいるのだろう。素早く対応してくれたし、熱心に心を添わせてくれたことがどれほど有難かったことだろう。 

そこでも奇跡は起きた。いや、これまでも取材や調査ではこのようなことが度々起こった。この時も最初からそんな予感があった。
数枚あった引き揚げの写真の説明文に声が出てしまった。
昭和21年6月17日とあった。それは父が病院船氷川丸で帰還した日だった。これらの写真には写っていないけれど、その時間にそのどこかには父の姿があったのだ。それは大きな驚きと、ここまで辿り着けたことの喜びをもたらした。

国立大竹病院の負った役目はまさに目を見張るものだった。
父は、肺結核とマラリアに罹患していた。おそらくは担架に乗せられたような状態で入院した。そこから数か月の治療のおかげで故郷に帰ることができた。遅い帰還だった。故郷では、痩せさらばえた姿で現れたことで、幽霊騒ぎになったことを父は語っていた。幽霊にされるってどんな気持ちだったのだろう。悪い冗談のような話だけれど、そんな話はたくさんあったと聞く。

皮肉にもオミクロン株の市中感染が始まった頃だった。水際作戦はまたしてもや失敗に終わった。本気でやっていないとしか思えなかった。
あの戦後の最悪の状況下で、マラリアが蔓延して全国的にパニックになったというのは聞かない。私が知らないだけだろうか。
多くの疫病を抱えて帰ってきた人達の受け皿になったのがこういった病院だったのだろう。1000人収容のところ、6000人を収容したこともあったらしい。

なぜ、今の時代、それができないのだろうか。単純に疑問が残ってしまう。

肝心のその港も、国立病院も実際にこの目で見たかったが、戦後、素早く閉鎖されていた。そこに歴史の隠ぺいはなかっただろうか、移転して新しい病院になって、跡地は払い下げられて化学プラントの工場になっていた。

わずかに、戦争記念モニュメントを残している緑地があるということで、タクシーに乗った。運よく運転手さんは高齢だったが地元の出身の方ではなかった。ただ、一年間に一人か二人、私のように訪ねてくる人を乗せるということだった。

港を徐行してゆっくりと見せてくださり、記念碑のある緑地でも、メーターを倒して外に出て煙草を燻らしていてくださった。その時間、私は心の目で病院や引き揚げ港の姿をしっかりと見つめることができた。

資料から大竹の町は引揚者にやさしい街であったようだ。そのDNAは受け継がれていた。JRの駅員さん、図書館の職員さん、タクシーの運転手さん、そして、大竹歴史研究会の方からは親切な資料が送られてきた。その優しさに感謝しかない。

帰る道、あんまり天気がいいのに誘われて途中下車したくなった。厳島神社にお参りした。すぐに帰りたくない、もっと旅人でいたかったのだ。鳥居は工事中で隠されてて、干潮でう~んな状態だったことは、後々の語り草になっている。

父の物語を書くのは私から父へのギフトだった。この足跡をたどる旅のギフトは倍返しのクリスマスプレゼントのような旅だった。
特別な時間が流れた二日間だった。出逢いと感動の旅だった。
まだまだ感動できる七十一歳の旅だったのだ。


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