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一枚の自分史:走れメロス号に乗って
2019年7月、69歳の夏。
津軽鉄道五所川原駅から金木駅までを「走れメロス号」で移動。
この年は太宰生誕110年、記念の太宰列車2019に乗り合わせた。車内の座席の窓際には、太宰の短編の作品が印刷された小冊子が置かれていた。
南部鉄の風鈴の短冊には、太宰作品の一節が書かれていた。揺れる度に風鈴が優しく鳴った。かつての文学少女が目を覚ましてきそうだった。
しかも私は乗り鉄な人らしい。何時間乗っても飽きるということがない。広い津軽平野の真ん中をゆたゆたと走る気動車。乗り鉄の血が騒ぐ。電車に乗っているだけでご機嫌なのだった。
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この夏は、秋田の大学で公務員試験の対策講座のために秋田に 一週間以上滞在していた。帰りは青森経由の空路を取ってもらった。
秋田でのお仕事は本当に楽しかった。仕事そのものがご褒美のようだった。
仕事をやり終えてこの夏初めての休暇をとった。太宰に会いに五能線でまずは五所川原に向かった。
晴天の日本海を「リゾートしらかみ」は多くの駅をかつて滞在した懐かしい深浦も飛ばして走った。
あの頃の五能線は各駅停車の正真正銘のローカル線だった。
今は世界遺産の白神山地も十二湖にも、すでに50年も前になる学生時代に一人で訪れている。
原始のまま眠るような蒼い湖沼に、その深い蒼さに怖れさえ抱いた。
そこから25年後にも訪ねたが、記憶の中に留まる蒼と周りの変わり果てた姿に哀しみを覚えるばかりだった。
そしてまた20年あまり経った。世界遺産は素通りして、目的は金木にあるあこがれの太宰治の斜陽館だった。
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太宰治記念館「斜陽館」は、太宰の生家、父親が建てた豪邸。幼少期の太宰に出逢える。そして作品にちりばめられた場面を回想することができる場所だった。確か、本人は大きいだけの場所とにべもないけれど。「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」とか・・・。
昭和25年から46年間、ここは旅館となっていた。この頃、私は、山本コウタロウとウィークエンドの歌う岬めぐりにはまっていた。岬はスルーできなかった。十三湖から竜飛岬まで足を延ばした。斜陽館には行きたかったが、また次の機会に宿泊できるようになってからゆっくりと滞在するために戻ってこようと、ギリギリまで迷って諦めた。
そして幾星霜、気が付けば宿は廃業してしまっていた。
行きたいところにはすぐに行こう。会いたい人には すぐに会いに行こう。今度って思っていたら今度はないかもしれない。
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青森で青い森鉄道の青い列車に乗り換えて浅虫温泉まで、棟方志功が愛した「椿館」に宿をとって、翌日は待望の三内丸山遺跡を訪ねた。
そのことはまた改めて書くことにしたい。
学生支援の仕事もコロナでオンラインになってしまった。また、あの懐かしい東北の地にいつ行けるのか分からない。
でも、またいつか・・・
そして、またいつか・・・
願わくば、冬に訪ねて、津軽鉄道の「走れメロス号」のストーブ列車に乗りたいと思っている。
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