見出し画像

マンダラエンデイングノート~「私の終活編・ツナグ」葬儀

2017-07-31
あれでよかったのだろうか・・・。
いつまでも後悔の残る母の介護と看取りでした。

書いていてよかったとつくづく思う。
読み返して、今さら気付き深く癒されています。
いい看取りができていたんだと・・・。

&&&&&&&&&&&&&&&

マンダラエンデイングノート 
Q:会いに来てほしい人は誰ですか?
という質問があります。
それに答えようとしたとき、浮かんだ質問が
Q:あなたが最期に会いたい人たちは誰ですか?
でした。
実は、まだ答えはありません。ただ、母を看取るとき
どうしても会わせてあげたい人たちがいました。

Q:どんな旅立ちをしたいですか?
大好きな人に送られて、満たされて旅立ちたいものです。

Q:どんな旅立ちをしたいですか?
私は、楽しい最後の日を用意したいと思っています。
お墓と骨については微妙で複雑・・・。
残されたものの悲しみは・・・。

&&&&&&&&&&&&&

17年前の今日、母が逝きました。
WEB日記に残されたその数日の記録や心のさまが甦ります。

&&&&&&&&&&&

会いに来てほしい人は誰ですか?

2004年7月30日(金) 母の旅立ち

午後9時58分に母は旅立ちました。
先生が、しばしば廻ってきてくださり、よく持っていると感心されていました。
そのはずです。
40度近い熱と100を超える心拍数。
もう3日、その間ずっとマラソンを全力で走っているようなものですから。よく頑張っていると・・・。
きっと、全員が揃うのを待っているとしか思えません。
金曜日で月末の今日の仕事を終えて孫たちが揃うのを・・・。

突然に、そのときは来ました。 
母を呼び続けました。待って欲しいと!
呼びかけると、母は戻ってきました。
心拍数が20代まで落ちたのが、30.40と上るのです。
そして呼び続け、間に合ったのです。
そしてやがて最期に。

母はちゃんと帳尻をあわして逝きました。
そういう人だったのです。
孫たちを心から愛して、愛されて逝ったのです。

最期は、願ったとおりとなりました。
苦しむことなく眠るように旅立ったのです。
しかも、愛する孫たちに囲まれて。
うらやましい死に方で・・・。

痛いしか言わなかったこの数ヶ月。
やっと解放された顔は、驚くほど安らかで綺麗で、70代とは思えない美しさです。それは理解の範疇を超えるもの。

ありがとう、おかあさん。
最期に私たちに安堵と満足を与えてくれました。 
この三日間は、お別れを楽しもうね。おかあさん。

画像2

どんな旅立ちをしたいですか?

2004年7月31日(土) 母の通夜式

弟の家を出るときは激しい雨が降っていた。
台風の影響で、雲がどんどん流れていた。
会館には、早々と、福井、岡山と親戚が集まってくれました。

金曜日の夜に亡くなってから、どこまでに知らせるか?母を中心に考えました。
親戚、友人、知人。長く暮らした天下茶屋の母の友人はほとんどが亡くなられたり、病を得ていたり、お子さんの所に転居するか施設に入所していて驚くほどそこにはおられませんでした。

会社関係には、休暇を取る関係で連絡を入れました。それ以外には連絡しないでおこうと決めていました。後でのどうして連絡をくれなかったかとお叱りは覚悟です。
それなのに、大勢の方が集まってくださいました。
本当にありがたく思いました。
先代からのお付き合いのご住職が来て下さり、心のこもったお経正信念仏偈を皆でお勤めをしました。

私たち親子、孫たちは、お正月とお盆は、いつも母と一緒にお寺に行き、正信念仏偈をあげていましたから全員が、お経をよめるのです。
それが母が一番楽しみにしている一番の年中行事だったのです。
一人で暮らす母への親孝行のつもりで、欠かさず勤めました。
そのことを本当によかったと今は思えます。

ご住職のお話に心が温かくなりました。
細々とした母の印象や思い出など、母からはもっと教えていただけたのに、もったいないと。
戒名の釈尼法慧のいわれなどをお話し下さいました。
母はすでに法名を西本願寺で平成10年にいただいていました。
奇しくも、その名は阿弥陀仏に師世自在王仏の出現する前にすでにおられた53の仏様が世に出られていて、その53仏のお一人の名前だということです。

有り難いお名前で、おかあさん、よかったね。
母の存在についてのお話を、プリントを準備してお話してくださいました。

ご住職の尊敬する石川欣也師の歌です。
「母」 
真夜さめてくりやに立つ吾に母いつも 
「だいじょうぶ、見てたげるからな」
 母とはこのようなもの。そう、夜中にトイレに行くのは本当に怖かった。「おかあちゃん、つれてって!」
忘れてしまったけど、私もそうだったんだろうな。
そして、そうしてもらったように子供には同じ言葉をかけていた。
誰にでもある母の思い出です。

福井県丸岡の「日本一短い母への手紙」より
桔梗がポンと音をたてて咲きました。日傘をさした母さんを、思い出しました。(谷本栄治さん)
ご住職は、母のことを、桔梗、こんな印象だった。ピッタリな感じだと話されました。

そうだと思いました。桔梗の花はぴったりだなと思い涙が止まりませんでした。楚々として、凛とした印象だったと話してくださいました。

私は、そんな母の娘として、凛として生きたいと願ってきました。でもそうではない自分が悲しいと・・・。
あなたから もらった物は数多く 返せる物は とても少ない。 

「親孝行しようと思うなら、母さんには何もしなくていいから、子供に親からしてもらった以上のことをしてやりなさい」
 って、いつも言っていた。それが母からの教えだった。
そうしようと頑張ってきたよ。
でも、簡単なことのようで難しいことでした。
返せるものは数少ない。

坂村真民
咲いたものは  いつかは散る
燃えるものは  いつかは消える
生まれたものは いつかは死ぬ
だから
その散り際の見事さ
消える一瞬の美しさを
学びとり身に付け
この世をさわやかに去ってゆこう
それが仏陀世尊の教えなのだ

以上のお話をしてくださいました。
いいお通夜となりました。皆さんもそう言ってくださいました。
悲しいけれど、こころが軽くなる。別れとはこういうものだと、優しい気持ちでいられる。

ご住職のお陰で、来てくださった方々のお陰でいいお通夜式をできたことで心が満たされました。
みなさま、ほんとうにありがとうございました。

画像1

いい告別式になったね。お母さん!

2004年8月1日(土) 母の告別式

11時に告別式は始まった。
月初めの月曜日ということでお越しいただける方は極少ないだろう
予想した通りでした。 

でも、お母さん、かえって、身内ばかりで心おきなく別れを告げることができましたよね。

お寺のご住職から、自分たちの告別式をしなさいと言われていました。
言われたときは、突然だし、何も浮かばなかった。
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと、それぐらいでした。

出しそびれた葉書がありました。菜の花を観に行ったときの車椅子のお母さんとそれを押す私の姿が写っている。宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに本文だけが書いていなかった。
改めて、お別れのハガキを書きましたよ。 

それを見て、娘や姪たちが、私たちもお手紙を書いて、写真を入れてあげようと決めたのです。

それなら、ちゃんとそれぞれが読んであげて、それから入れてあげたほうが心が届くのではないかと思ったのです。それが私たちの告別式になるのではないかと・・・。

嫌がるのかと思ったら、素直にそうすると言う。葬儀社の若い男性の担当者にお願いすると気持ちよく承知してくれました。

そして、それぞれ孫7人、思いがこもったお手紙を哀しみを堪えて読み上げてくれました。

お母さん、聞こえましたか?貴女の愛した孫たちの最後のラブレター。
一番年上の息子と一番下の姪っ子はおばあちゃんを独占できた時期があったけれど、後の5人は何時でもおばあちゃんを取り合いしていました。

誰がおばあちゃんの横に寝るかで争奪戦だった。時にエスカレートして泣き出す子がいるくらい。随分、騒がしかったことでしょうね。

幸せだったよね。

息子が一番最初だった。手紙はおばあちゃんだけが読んでくれたらいいからと言って読むのは止めてしまった。
「でも、たくさん愛してくれてありがとう。いっぱい感謝しているよ!その中でも、一番感謝しているのが僕のお母さんを生んでくれたことです。
おばあちゃんがお母さんを生んでくれなかったら、僕はこうして存在していなかった。本当にありがとう!」

娘は、介護が必要になったとき、一番頑張ってくれました。そして一番苦しんだのです。段々と認知症が進んで行くことが辛くて、優しくなれないことを私と一緒に苦しんでくれましだ。
大好きな人がそうでなくなる切なさを一緒に。
昨夜も、会館で棺を抱きしめ、何時間でもそのまま居ました・・・。
たった一人で側で過ごしました。

私は、いい孫だっただろうか?介護の途上のジレンマからの言葉だった。
優しくなれないこともあった。ごめんね。
いつも抱きしめてくれたのに、もう抱きしめてあげられない。
もっと抱きしめてあげたらよかった。
でも、おばあちゃんはどこかに行ったって思えない。
また、うちの居間に現れて、私の行儀の悪さを叱ってくれそうな気がする。
お浄土へ続く明るい花が一杯咲いている草原を、背筋をぴんと伸ばし、出会う人たちに丁寧に挨拶をしていることだろう。
おばあちゃんのこと心から愛しています。

ほかの子達も、それぞれの思いを、それぞれの言葉で伝えた。

いい告別式になったね。お母さん。
火葬場へ、行った時もさほどに感じなかった。
私はどうしてこうも冷静でおられるのだろう。

まだ、居なくなったという実感が無かった。
骨になったのを見て、初めて現実に目覚めた気がした。
喪失感に突然、襲われた。静かに涙が止め処なく流れ落ちた。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
何故、こんな辛い行事をこなさなきゃならないのだろう。
すべて燃やしたらいいじゃないの。
すべて灰にすればいい。跡形もなく。
骨を拾うなんて、そんなにリアルな哀しみは要らない。

続けて、初七日の法要を終えて帰って来た。
水曜日から続いた長い非日常から帰って来たのに、日常を刻む時間は狂ったまま。しばらくは戻れないんだろうな。

お母さん
今、蓮の花が見事に咲く季節ですよね。
蓮の花に乗っていくのかしら・・。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?