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一枚の自分史:哀しみを優しさに変えるコツ

2000年平成12年1月私50歳の冬のことでした。
前年には日航機乗っ取り東海村臨界事故家日産 COO にカルロスゴーン氏が着任するなどなぜか暗いニュースが多発していました。
日本経済の失速を感じる日々、長男も超氷河期の就職難にあえいでいました。

母75歳と息子23歳。
写っていないけれど、振袖を着てはしゃぐ長女20歳の姿がついさっきまでありました。
この日は成人式で、バタバタと着付けをして、バタバタと友人たちと出かけて行きました。

母には長女の振袖姿を見てもらうことができたこと、母のとても嬉しそうな姿を見ることができて私は満ち足りていました。

バタバタと出て行ったドライな長女は可愛い。
けれど、母にとっては初孫だった長男とこうして二人でいられることがもっと嬉しかったのだろう。
超氷河期の中でなんとかこの春は就職が決まっていた。
そんなこんなの我が家の春でした。

そのころ、母は実家で一人で暮らすことには綻びが出始めていた。
いろいろとやらかしていた。
無理してしゃんとしている姿が 写真からも見て取れるのに
当時はなぜわからなかったのだろうと今更だけど思う。

ただ、その時のエピソードがある。エピソード中のエピソードである!

こんなことを言い出したのです。

「 お母さんはビデオで女優になったよ」
「え~!どういうこと?」
「近所の芸能関係の人に頼まれたから出演してん!」
「???」
とうとう、認知症が進んだのか?妄想にしては・・・。
私も長男もぶっ飛びました。

真相はこうでした。

母の住んでいる実家の近所に芸能関係の人たちが多くいた。
その人たちが、上品なおばあさんを探している。
それで白羽の矢が立ったらしい。
富田林市の教育委員会が石上露子さんの生涯を描いたビデオを作ることになって
晩年の姿を演じる年配の女性を探しているということだった。

それにしても、よく引き受けたものです。
母の晩年は、人前に出たり目立ったりすることをどちらかといえば嫌がっていた。
でも、そんなところがあったのだと改めて驚くばかりでした。

お気に入りの自前の着物で佇む姿や文机に向かう所作は美しく
最後のシーンの縁側でぽつねんと座る姿からカメラが引いていく。
とても静かで無音の世界でした。

セリフがないけれど、なかなかの女優ぶりでした。

すわ!認知症かと疑ったことはごめんなさい。
まさかの一件でした。

この後、まだら模様を描いて壊れていき
母は4年後にこの世を去りました。

ビデオの最後のシーンは
石上露子さんの寂しい晩年を描いている。
縁側に座る露子さんの姿がやがて小さくなって消えていった。
母の最期を予感するようで目を背けた。

その感覚は20年経ってもまだ心の奥に残っています。

そろそろ自分の番が回ってきている。
母のようにギリギリまで頑張るのもいいが
どこかで援けてもらってもいい。
あの日実家にかけつけた時の悲しい姿を私は子供達に見せたくない。
どこで、どのように援けてもらうかをそろそろ決めておこう。

自分がそうだったような未完了な思いを
あの子達には残してやりたくないと思うのです。


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