双子論争に思うこと。困ったときに助け合える社会をつくるには、想像力が必要だ。
名古屋での双子ベビーカーとバス乗車の問題以降、多胎育児に関する論争が勃発している。
実のところ、私も近々双子を出産予定のため、人ごとではない。
ニュースでは多胎育児の過酷な実態が報じられ、Twitterでは #助けて多胎育児 #助けません多胎育児 のハッシュタグ戦争が勃発、当事者からも割り切った意見もしくは理解を求める声、外出時のHOWTO記事などが発信されている。
さまざまな意見が交わされるのを眺めながら、ともすれば擁護派か批判派かのどちらかの視点でしか語られないところに、少し違和感を感じるのは私だけだろうか。
困難な状況の人がいることを理解し、手を差し伸べられる社会になること
実際ある程度迷惑をかける可能性もあるという意味で、多胎育児が社会に受け入れられない現状は確かだ。
それに対する個人の意見は自由だと思う。
(双子を産んだこと自体が自己責任だろという批判は、流石に論旨が違うと思うけど。)
でもこんな風にメディアで取り上げられたり、政治家が国による支援のあり方まで言及するくらいには話題となっているからこそ、改めて共有したいことがある。
ベビーカーの乗車とバスのオペレーションから端を発した問題だが、さらに議論すべきは「自分とは違う困難な状態のひとがいることを理解し、助け合える社会にするには」ではないかと思う。
ちょっとの想像力をはたらかせてみること
私も妊娠し、ある種の困難を抱えたことではじめてわかったことがたくさんある。
電車で席に座るにはマタニティマークをわざわざつけて優先席の前に立たなければいけないこと、お腹が大きくなくても切迫流産の可能性などの事情があり身体的に座らなくてはいけない人がいること、単胎妊娠と多胎妊娠では身体への負担が全く違い同じ妊婦でも行動に成約があること。
健常な身体では知れなかったことを沢山経験し、そのおかげで、「自分とは違う困難を抱えた人」がいるということを実感することができた。
そして、「全く関係がないと思っていた状態の人に、自分が突然なることがある」ということを思い知らされたのだ。
妊娠中、周りの多くの人に助けられたが、もちろんその人たちは、私と同じ経験をしたことがある人ばかりではないだろう。
自分自身ではコントロールできない困難さに直面したときに、そのやさしさが本当にありがたかった。私も、自分の知らない困難にある人をどうしたら助けられるだろうと考えることようになった。
でも、今の日本では他人を助けるという価値観が当たり前ではない。これは日本人のコミュニティのありかたと、社会的孤立に深く関わっている。
助けてもらったから今度は自分が助ける、というギブアンドテイクだけでは社会は変わらない。
だからこそ大事だと感じるのは、〈知って、想像すること〉。
例えば今回のメディアによる報道で、多胎育児という困難にある人を知った、そして自分がそうだったらと想像してみる。
ひとりひとりがそんな想像力を少し働かせられたら、日本の社会はもっとやさしくなれるではないだろうか。