「カッコ」つける
「初対面の人と話すとき、なんかカッコつけた声で喋るよね」と彼女に言われた。
当方、全く自覚はない。たしかに僕は初対面の人と会話するのにあまり抵抗を感じない方ではあるが、だからと言ってあからさまにカッコつけて話しかけにいくような軟派野郎では決してない。ただ緊張していつもと違う発声方法になっているだけなんだ、いやほんとに、信じてくれ、と伝えたが半信半疑だった。
そもそもの事の発端は、最近彼女がハマっている俳優のインスタかなんかの配信で、「おやすみ」を言ってくれるのがカッコいいだなんだと騒いでいたのにややヘソを曲げた僕が「そんなの俺でいいじゃん」と言って僕なりの“おやすみ”を言ってやり、盛大にブーイングを食らったところから始まる。やらなきゃよかった。
大体なんだその“カッコつけた声”とかいう恥ずかしい概念は、本当に俺のことか?とやや立腹していると、じゃあ、と裁判官は証拠の提出を求めてきた。「カッコいい声出してみてよ」と。しかし普通に発声する以外にカッコいい声というやつを出す訓練を積んだわけではない僕が、カッコいい声というやつを出そうとするとやれることは限られる。試しに『おやすみ』と低めの声で言ってみたら「低いだけじゃん」と笑われた。いやそうだけども。
そもそも“カッコつけた”声というのは何だろう。これがよく分からない。カッコつけた声、というのは恐らくカッコいい声のことではないのだ。似たような話で“可愛子ぶった”という修飾があるが、可愛子ぶった様は必ずしも可愛くはないのだ。『可愛い』と『可愛子ぶった』の間には隔たりがあるが、しかし両者は同一線上にあるのではあるまいか。可愛いを目指したものの、意図した可愛さを得られぬまま不完全な形で供されたそれが“可愛子ぶった”様だとするなら、両者のベクトルは一致するはずである。100人中95人が可愛さを感じられなくとも、5人にとっては可愛いの閾値を超えてくる、そんな様子を“可愛子ぶった”と言うのではないかと僕は主張した。
つまり何が言いたいかというと、可愛子ぶったは一部の人にとっては可愛いし、カッコつけたもまたカッコいいと感じる人はいるだろうということだ。だから俺の声は単にカッコいいのであって、カッコつけているわけでは決してない、と主張した。臆面もなく。
結論から言って彼女は爆笑した。
僕の理路整然とした屁理屈を一笑に付した後に彼女は、それは違うと思う、と言った。可愛子ぶっている子は可愛くないし、カッコつけているお前の声もまたカッコいいわけではないと。そうでしたか。悲しいな。彼女の言に依るところでは、カッコいいとカッコつけはねじれの関係にあるのだという。カッコいいが本質を捉えた真のカッコよさのベクトルにあるとするなら、カッコつけた様はimitationであり偽物なのだと。カッコよさを偽り、騙り、真似しただけのものは擬態に過ぎない。どんなによく出来た擬態であっても本物には決して届くことがないのだ。
彼女の意見を聞いた僕は大変納得し、絡まってダマになっていた言葉の綾が解れていく快感に浸っていた。こんな風に僕が言葉の枝葉末節に拘泥して泥のようにクダを巻くことが度々あり、その都度彼女を議論に付き合わせては僕が納得するまでやり合わせる。彼女は心底うんざりしているらしいが僕はこれが楽しくて仕方ないので、偶につっかかる時くらい付き合ってほしい。
さて、納得したのはいいとして結局のところ僕はカッコつけていたのだろうか。彼女が言うには「空気を多く含んだような声」ということだったが、そんな発声方法があり得るのか?イルカのバブルリングじゃないんだぞ。
それじゃあまぁ、なんだ、おやすみ。