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ゆるやかな自殺
速やかな自殺
某人曰く、喫煙は緩慢なる自殺なんだそうだ [1]。
言ってることは分かるが随分甘い表現だ。喫煙に限らず、人生は悉く死へ向かう過程にある。生命の始まりから死に至るまでの放物線を微分したものに瞬間的な”人生”を見出しているに過ぎず、物質的には0から0へ移動しているだけである[2]。人生においては万象が緩やかな自殺に相当する。その中で喫煙は寧ろ相対的に速やかな自殺と言えよう。
こんな屁理屈を捏ね回した癖に僕は時々喫煙する。ただ本数があまりに少ないのでしばしば何故に喫煙を続けるのかと問われることが多い。僕にも分からない。初めは甘くて重い煙草が好きだったのに、段々メンソールみたいなのを好んで吸うようになり、そのうちこれはミントガムでもいいんじゃないかと思ってブラックガムを噛んでいたら一週間くらい問題なく禁煙できた。
僕はいつでも煙草をやめられると思う。そういうことを言うとすごく嘘っぽいけれど、実際その程度の執着しか与えられていない。
緩やかな自殺
煙草を咥えると、緩やかな自殺について考えを転がすことが多い。
僕の友人に独特な死生観を持った男がいる。彼は死がとても恐ろしいらしい。どうせ死ぬくらいなら生まれてきたくなかった、そこに自分の選択権が介入し得ないのは納得できない、といった趣旨のことをよく言っている[3]。こうした考えに於いて人生という緩やかな自殺は正に拷問なのだろう。僕には想像できない。僕はただ単にラッキーだったと思っている。何らかの偶然で自我を得て、こうして死へ着地するまでの緩やかに引き伸ばされた落下時間を生きていることにただ幸運を感じている。別にこれまでいい事ばかりあったわけでもないし、どちらかというと猫背で世を渡ってきたように思っているが、それでもこの世界は僕にとって面白い。面白いこの世界を、ただ単調に消費する贅沢を楽しんでいる。
ただ、僕にも焦りがないというと嘘になる。自分の今がこの引き伸ばされた放物線のどこに位置しているのか知るすべがないという点については、些か不安を持っている。過去の研究によると、ヒトやヒトに似た動物は、しばしば慣れた運動の”過程”を無意識化するという。この手の話を聞くとつい、自分が無為に消費してきた日常を思って薄ら寒くなる。あくまで主体的に時間を浪費してきたつもりでも、その大半はきっと意識されることはない。我々は無意識に日々を落下している。その事に気付いたところで特に取り返しはつかないし、地面はもうとっくに目前に迫っているかもしれない。
ところでカッチリした科学的知見を曖昧なアナロジーの引き合いに出すのはフェアではない[4]。理屈と膏薬は何にでもつくらしいし、反省して今後は安易な喩え話は慎もう。もっとこう毒にも薬にもならないことを言うべきだ、結局皆落ちる先は決まっているのだし[5]。
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[1] Joseph Anthony Califano, (参考: https://www.ministrymagazine.org/archive/1978/03/slow-motion-suicide)
[2] 『トイ・ストーリー』でバズ・ライトイヤーが「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。かっこつけてな」って言うシーンがあって、あれがすごい好き。放物線のイメージはここからきている。生きているというよりゆっくり死んでいる。
[3] ちなみにタナトフォビア(死恐怖症)の友人はここ1年ばかり禁煙に成功している。本当に死にたくないらしい。その意気や良し。
[4] 引用しないので本当に知りたい場合だけ個別に聞いてください。去年の学会でも何件か見た。
[5] こんなことをいちいち考えながら吸う煙が美味いわけがあるか?スコーンのが絶対美味いよ。
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