日本は何故アメリカと戦争したのか?(8)議論の出来ない日本人
前回説明した思惑から、日本はドイツと同盟した。だったのだが、その皮算用は1941年6月22日の独ソ戦勃発で破綻する。近衛文麿は、その時の考えを事後に記しているので、それを引用してみる↓(『三国同盟について』より)。
六月二十二日に至りついに独ソ戦の火蓋は切られた。英米はただちにソ連援助を声明した。ソ連は明らかに英米の陣営に入った。日ソの関係には当分変化なしとはいえ、三国同盟の前提たる日独ソの連携はもはや絶望である。日本とドイツとの交通は遮断せられ、三国同盟は現実にその効用の大半を失ったのである。さきに平沼内閣当時、ソ連を対象とする三国同盟の議を進めながら、突如その相手ソ連と不可侵条約を結びたることが、ドイツの我が国に対する第一回の裏切り行為とすれば、ソ連を味方にすべく約束し、この約束を前提として三国同盟を結んでおきながら、我が国の勧告を無視してソ連と開戦せるは、 第二回の裏切り行為というべきである。従ってこの時日本としては当然三国同盟の再検討をなすべき権利と至当性を有する次第である。余は当時三国同盟締結の理由ないし経過に鑑み、本条約を御破算にすることが当然なのではなかろうかと軍部大臣とも懇談したことであった。しかしながらドイツ軍部を信頼すること厚き我が陸軍は、到底かかる説に耳を傾けようとしなかった。ことに緒戦におけるドイツの大戦果はいっそう我が陸軍をしてその確信を強めしめたようである。
ここにおいて余は次の結論に達した。すなわち三国同盟の再検討は到底我が国内事情が許さざるのみならず、昨年締結したばかりの同盟を今ただちに廃棄するがごときは、いかに相手方の裏切り行為になるとはいえ、それは裏面の話であって、表面は我が国の国際信義の問題となる。ゆえに今三国同盟そのものを問題とするのは適当でない。しかしながらすでに独ソ開戦となった以上は、同盟の主たる目標の一であるところの日独ソ提携の希望は完全に費え去ったのであり、かかる条件の下において、将来三国同盟より生ずることあるべき危険、すなわち対米戦争の危険に陥るごときことあらば、我が国として由々しき一大事である。第一それでは同盟を結んだ意義がまったく失われる次第である。ゆえにこの危険に対しては十分備えるところがなければならぬ。それは日米接近のほかにはない。しかも日米接近の可能性は同盟締結前においては絶望視されたが、当時においてはむしろ大いに有望視されたのである。何となれば、欧州において英国の窮境を救わんとする米国は、太平洋において日本と事を構うることを極力回避せんとしていたからである。現に日米交渉はその年四月より始められている。余が三国同盟に多少冷却的影響を与うることありとも、日米交渉はぜひ成立せしめねばならぬと決心したのはこのためであったのである。
事実としては、近衛文麿は確かに日米交渉(当時の呼び方では『N工作』)を妥結させようとした。ただしそれは、アメリカの意図を読み誤った判断だった。その説明は次回。
そしてその前に『大東亜戦争全史』の記述↓を引用しておかなければならない。これも独ソ戦勃発後の日独伊三国同盟について。
大本営政府間に意見の一致を見た新国策(註。『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)は、依然、日独伊三国枢軸の精神を基調とするものである。飜つて第二次近衛内閣成立以来における外交政策の基調は、既に屢ゝ述べた如く、日独伊三国枢軸を日独伊ソ四国提携へと拡充し、国際政局に有利な地歩を占めようとするにあつた。然るに独逸の一方的意志による対ソ開戦によつてこの構想はあえなく破綻した。日本としては、これを契機として三国同盟を破棄し、全く独自の道を進むことも考えられるわけである。然しかゝる意見は連絡懇談会に於て大本営政府いずれの側からも討議せられなかつた。
尤も六月二十五日陸海軍統帥部には、近衛首相が前日決定した大本営案に不同意で、首相は三国枢軸離脱の考えである旨の連絡があつた。しかし間もなくそれは誤りであると訂正せられた。終戦後発表せられた近衛公の手記によれば、当時近衛首相は三国同盟破棄の考えを陸海両相等に申入れたことになつているが、連日の連絡懇談会においては、相変らず、会して議せず、議して決せずの態度を示していた。
先の大戦頃の日本は、幾つもの誤りを犯した。その原因は幾つもあるのだが、そのひとつが、要人同士の腹を割った話し合いがほとんど行われない、という点。今回の話は、そのひとつの例でもある。
そして歴史を研究しようとする場合、当事者の事後の証言は、まったく信用できない。当時記された文書と相違することや、証言者間で食い違っていることが、しばしばだからだ。今回の記事はその一例でもある。なのだが、その信用できないものしか手がかりが無いケースも多く、これまた厄介なことになる。