保阪正康著『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書―』(新潮新書)を批判してみる
今回は、保阪正康著『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書―』(新潮新書)の批判。
ストレートに言うのは誠に申し訳ないのだが、これは氏の著作とは思えない間違いだらけの本。そして、どうやら誰もそれを指摘していない様子。なので、仕方が無い、筆者がしようと思った次第。
なお、ここでは細かいところは省いて重要な部分だけを記している。
1・「発言せざる天皇」という間違い
まず最初は、明治憲法下の天皇制についての誤り。『第二章 開戦に至るまでのターニングポイント 1 発言せざる天皇が怒った「 二・二六事件」』で、氏はこう↓書いている。
そしてもう一つ、「 二・二六」は当時の日本のある状況に、大きな爪あとを残すことになる。それは「 断固、青年将校を討伐せよ」と発言した天皇の存在である。天皇は、その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意思表示することの意味の大きさを思い知り、それを怖れるかのように。
(中略)
日米開戦が決まるまで、天皇は一貫して開戦に反対であったと思われるが、そうした意向も決して表に出すことは無かった。
これがはっきりした間違い。根拠は『杉山メモ』。昭和天皇の発言が幾つも記されている。
昭和天皇が沈黙していたのは、御前会議においてだけ。御前会議というのは、政府と軍部が決定した事柄を、会議形式で昭和天皇に披露する儀式みたいなもの。だから昭和天皇は、御前会議の場では普通、一言も発しなかった。
また、これも『杉山メモ』から分かるが、昭和天皇は昭和16年9月5日、参謀総長・杉山元と軍令部総長・永野修身を呼び、「成ルヘク平和的ニ外交テヤレ 外交ト戦争準備ハ平行セシメスニ外交ヲ先行セシメヨ」と言い、他に幾つも詰問をしている。「開戦に反対」とまでは明言していないが、その真意は明らかだった。つまり昭和天皇は沈黙などしていない。
また、氏はこうも書いている↓
あるいは歴史に「イフ」が許され、開戦前の時期、もし天皇が「断固、戦争に反対する」と語っていたらどうなっていたか……。のちに天皇は「昭和天皇独白録」の中で、もし自分が開戦に反対したら、「国内は必ず大内乱になり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない」状態になっただろうと言っている。私の生命はかまわないが、「今時の戦争に数倍する悲惨事」になったとも告白している。
これまた氏の誤解だ。そもそも明治憲法の制約から、昭和天皇は「断固、戦争に反対する」とまでは言えない。
「昭和天皇独白録」についてだが、それは昭和天皇自身が執筆したものでは無い。昭和天皇からの聞き取りを元にしてはいるが、それもどれだけ忠実なのか全く不明。そして、それが東京裁判対策だったことも今では分かっている。なので史料的な価値は無い。
2・『日米諒解案』の誤解
そしてこの本は、日米交渉についても間違っている。『第二章 開戦に至るまでのターニングポイント 2 坂を転げ落ちるように――「真珠湾」に至るまで』で氏はこう書いている↓
十五年十一月、アメリカからウォルシュとドラウトという二人の神父が日米関係の悪化を憂い、首相の近衛に接触し「日米国交打開策」を持ちかけてきている。近衛はこれに乗り、神父たちの持ってきた「打開策」を元に、陸軍省軍事課長の岩畔豪雄らが中心になって「日米諒解案」を作成した。
これも間違い。『日米諒解案』はアメリカ政府とも日本本国との無関係にワシントンの日本大使館が作成したものだったのだが、日本本国はその真相を知らなかった。(松岡洋右だけは見破ったが、それは共有されなかった)。
根拠は、『杉山メモ』や近衛文麿の『最後の御前会議』や『木戸幸一日記』や野村吉三郎著『米国に使して』など。また、事実として近衛文麿は石油禁輸後に日米首脳会談を提案しているのだが、もし氏の記述が正しいとすると、その頃の近衛文麿の言動(『日米諒解案』をアメリカ側提案と思い込んでいる)が説明できなくなる。
(この本はその後に甲案・乙案とハルノートについて記述しているが、それも間違っている。が、この説明は省く)。
3・北進論と南進論の誤り
そしてこの本の『第二章 開戦に至るまでのターニングポイント 2 坂を転げ落ちるように――「真珠湾」に至るまで』は南進論と北進論について記述しているが、それもほとんど間違っている。が、これについては筆者が以前記しているので、および非常に複雑なので、説明は省く。
4・「武力発動を辞せざる」の意味不明
この本は、日本がアメリカとの戦争を決意していく過程も、間違って書いている。同じく『第二章 開戦に至るまでのターニングポイント 2 坂を転げ落ちるように――「真珠湾」に至るまで』で氏はこう書いている↓
九月三日、アメリカの強硬な制裁を受け、急きょ「大本営政府連絡会議」が開かれている。そこで、現状を鑑みて三つの取るべき国策が決定された。
「米英に対して戦争準備を行う」、「これと同時進行して飽くまで日米交渉を続ける」、そして「十月上旬頃まで交渉を続けて、交渉の成果が無い場合には米英に対して武力発動を辞せざる」と。
この議決は六日、「御前会議」でも決せられた。(後略)
ここも間違いだらけなのだが、とりあえず指摘したいのは「十月上旬頃まで交渉を続けて、交渉の成果が無い場合には米英に対して武力発動を辞せざる」だ。そもそもこれ、日本語として間違っているでしょ?
これ、正しくは「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」だ。
つまり保坂正康氏は、昭和16年9月6日の決定をまったく理解していないのだ。だから、さらにこのような↓間違いを記してしまっている。
注目してもらいたいのは、東條は、「九月六日の御前会議の決定通り進むべき」だとしかいっていないことである。決して「武力発動せよ」「戦争しろ」と、直接的には口にしていないのだ。
「九月六日の御前会議の決定通り進むべき」とは「アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決意しろ」なのだが、氏はここも間違えている。
5・「石油神話」の誤解
これも日本の戦争決意に関する誤り。同様に『第二章 開戦に至るまでのターニングポイント 2 坂を転げ落ちるように――「真珠湾」に至るまで』で氏はこう書いている↓
(前略)
「第一委員会」が巧妙に戦争に先導していった一つの例として、「石油神話」がある。
(中略)
この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、「二年も持たない」との結論であった。結局、それが開戦の理由となった。
しかし、実は日本には石油はあったのだ。
(後略)
まず、「それが開戦の理由になった」というのが誤り。日本は総合判断からアメリカとの戦争を決定したのであり、石油はその理由のひとつに過ぎない。だが、これについては筆者は以前説明しているので、ここでは繰り返さない。
次に、「実は日本には石油はあったのだ」について。
開戦前の日本に大量の石油備蓄があったことは『杉山メモ』にも記されており、周知の事実だ。一応数字を出しておくと、それは840万キロリットルだった(昭和16年11月5日の御前会議での説明)。
問題は、石油の備蓄は大量でも消費も大量だった事で、だから「二年も持たない」だった。
ただし、陸海軍ともに正確な備蓄量を報告しなかったのは、おそらく事実。
なのだが、これも確認できる事実として、日本本土は1943年時点で深刻な燃料不足に陥っている。有ることは有るのだが、海軍が継続的に作戦するには全く不足。だから最小限の燃料だけ積んで東南アジアまで回航し、そこで燃料を詰め込んで出撃、という状況だった。そしてそれは、開戦前の予想と概ね一致すると考えられる。故に、それに関して大きな虚偽があったとは考えられない。
以上の点から、「太平洋戦争開戦について、最初に責任を問われるべきなのは、本当は海軍だったのである」という氏の主張は、氏の提示した論拠については、完全に誤っていると断定できる。
6・終戦時の記述の誤り
この本は、日本が終戦に至るまでの過程も、ただし当たらずとも遠からず位ではあるのだが、ほとんど間違っている。が、これも筆者が以前記しているので説明は省く。
以上。とにかく保阪正康著『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書―』(新潮新書)は、非常に誤りが多い。特に、日本が太平洋戦争を決定していく過程、および日本が終戦を決定する過程は、重要なところはほぼ全て間違っている。
ただし、大体にしてそれは当たらずとも遠からずな範囲ではある。しかしそれでも間違いは間違い。それが若い学生ならともかく、長年歴史を研究してきたノンフィクション作家がこうも間違いだらけを書いてしまうのは、いけないんじゃ無かろうか。