加藤陽子氏の間違い

 そもそも歴史とは、ものすごく難しい。そんな難しいものをそらんじるのは、人智をもってする限り、不可能。だから、ご立派な肩書きをお持ちの歴史家も、あるいは有名な歴史作家も、大きな間違いを書いてしまうことがある。
 というのが今回の記事の内容で、ここでは東大の加藤陽子氏の誤りを指摘しようと言うもの。

 加藤陽子氏は、ハフィントンポストで↓の記事を書いているが、ここには何カ所も間違いがある。それが書かれてから何年も経っているが、どうやら誰もそれを指摘しないようなので、仕方ない、筆者がそれをしよう、というもの。
 https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-yoko-kato_n_13349530.html


 それでまず、疑問の余地の無い誤りから。加藤陽子氏は、このように↓記している。

この時期の出来事の時系列を整理しておきましょう。1940年9月7日、ドイツはイギリス本土への空爆を開始します。いわゆるバトル・オブ・ブリテンです。

 これが間違い。一般的な解釈としては、バトル・オブ・ブリテンは、1940年7月10日から。1940年9月7日から始まったのは、そのうちのロンドンへの空襲。
 恐らくこれは単純な勘違いだし、それくらい誰だってするし、筆者もしょっちゅうで人のことは言えないのだが、しかし間違いは間違いだ。
(なお、ドイツ空軍のイギリスへの空襲は、1940年5月から始まっており、だからドイツの歴史家は、ふつう、バトル・オブ・ブリテンはそこから始まったと解釈しているそう)。



 もっと大きな誤りは、日米交渉について。加藤陽子氏は、このように↓記している。

――日米とも衝突は避けたかったけど、実際には戦争へと至りました。なぜでしょうか。
いくつかの答えがあります。一つには、最も有望視された近衛文麿首相とルーズベルト大統領の洋上会談計画が、日本国内の国家主義勢力に漏れ、極めて効果的な批判がなされ、つぶされたからです。彼らは近衛首相のことを、「ユダヤ的金権幕府を構成して皇国を私(わたくし)」する勢力の傀儡だと批判しました。

 まず、「洋上会談」というのが、大西洋会談との混同。日米首脳会談については、当時の日本側提案が、ハワイのホノルル。アメリカ側提案が、アラスカのジュノー。また、日米首脳会談が流れたのは、アメリカが予備的合意にこだわったからで、「日本国内の国家主義勢力」とは、何の関係も無い。
(予備的合意とは要するに、日本がハル四原則を受け入れ、拡張政策を放棄するならば、アメリカは日本との交渉に応じる、という日米交渉当初からのアメリカの方針。ハル四原則とは、領土・主権の尊重、内政不干渉、機会均等、現状維持。主義上は文句の付け所が無く、当時の日本もそれは認めていた)。


 また、加藤陽子氏は、このようにも↓記している。

ところが41年7月、日本の南部仏印進駐時には、アメリカ国内状況に変化が起きていた。41年夏、ルーズベルトとハルはワシントンを離れていました。
この2人の不在時に暗躍したのが、先のモーゲンソーです。彼は対日強硬派が影響力を持ちうる、外国資産管理委員会という機関に、禁輸に関する職務を専管させるようにしてしまいます。
ハルの国務省とルーズベルト大統領は、この委員会が対日資産の全面凍結と全面禁輸を実施していたことを、日本の野村大使からクレームがつけられるまで、なんと知らなかったのです。アメリカ側にも官僚制の対立があり、対日態度の差異による権力闘争があったということです。

 これも、容易に確認できる間違い。
 その頃ハルは療養中だったが、ルーズベルトは7月24日にワシントンで駐米大使・野村吉三郎と会談している。そこでルーズベルトは石油禁輸をほのめかした。「従来輿論は日本に対して石油を禁輸せよということを強く主張したのであるが、自分は日本に石油を与えることは太平洋平和の為に必要なりと説得して今迄やって来たのである。ところが日本が今日の如く仏印に進駐し更に南方に進まんとする如き形勢になって来ては、余は従来の論議を失い最早太平洋を平和的に使用することが出来なくなって来る、そうして自分の国が太平洋地域から錫、ゴムの如き必要品を入手することが困難になって来る、其の上太平洋の他のエリアの安全も脅かされて、フィリッピンも危険になって来る。之では折角苦心して石油の輸出を持して居っても何にもならない」(以上は野村吉三郎著『米国に使して』より。現代仮名遣いに直している)。(なお、その後にルーズベルトは大西洋会談のためワシントンを離れている。次に野村吉三郎と会談したのは1941年8月17日で、その時にルーズベルトは「日本政府は極東に於て、種々の地点に於て兵力を用ひ、遂に印度支那をも占領した。若しも日本政府が隣接諸国に武力を行使し、もしくは武力の脅迫に依り武力支配の政策を今以上に続けるならば、米国政府は直ちに米国及び米国民の正当なる権益を護り、且米国の安全及び保安を保護するに必要なる凡ゆる手段を採るの已むを得ざるに至るべし」とまで強い警告を出した)。
 また、資産凍結にしろ石油禁輸にしろ、いきなり行われたものでは無い。それ以前から前兆はあり、野村吉三郎は日本本国に意見具申している。

 そして、これもよく知られているが、7月23日、静養中のコーデル・ハルは野村吉三郎に「交渉も継続する基礎はなくなったと思う」旨を伝言している。『ハル回顧録』の記述では「ウェルズは強い言葉で野村にこの意見を伝え、われわれの交渉は終わったという私の態度を明らかにした」。



 そして、加藤陽子氏は、このようにも↓記している。

また、日米両国には、交渉しなければならない懸案がありました。それはアメリカが1941年3月に制定した武器貸与法から生じてきた問題です。
この法律によってアメリカは、イギリスに対するあらゆる武器援助が可能となりました。ただ、このようなアメリカの行動が、三国同盟を発動させてしまわないかという問題が浮上してきたのです。
三国同盟はその第3条に、日本・ドイツ・イタリアのいずれか一国がアメリカ(名指しはしていない)から「攻撃」された時、武力行使を含めた援助義務を三国に生じさせます。「攻撃」にいかなる行動が入るのかがわからなければ、日本もアメリカも安心して艦艇を航行させられません。日米双方とも、不用意な暴発を防ぐために、三国同盟第3条の中味を検討するための交渉が必要でした。

 これも間違い。日米交渉では、「三国同盟第3条の中味を検討するための交渉」など、行われていない。
 ただ、「ない」を証明するのは『悪魔の証明』なので、普通、不可能。なので、ここは厄介な話になる。

 それでとにかく、日独伊三国同盟の第三条は、「日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス」。(ウィキペディアより)

 そして、1941年の日米交渉(『N工作』)では、それに関連したやりとりが行われている。ただしそれは、三国同盟第3条の中味の検討ではない。
 野村吉三郎著『米国に使して』によると、5月16日には「萬一米國が戦争することとなつたならば、三國同盟第三條の義務につき問題が起り得るといふことを話し、以て米國自衛の限度を尋ねたが、長官は援英は自衛なりといふ言を繰返したに過ぎなかつた」。
 5月28日には「國務長官を私邸に往訪。長官は米國が自己の安全の為に抵抗 (resist)する意義を説明した上、三國同盟第三の意味について質問し「松岡外相屡次の聲明等に依り自分の同僚の間にはかなり懐疑的の者がある」旨語つたから、余は東京に尋ねても東京は第三條を敷衍せざるべく、攻撃の字句についても解釈はなささるべき旨答へた」。

 説明すると、その時アメリカは、とっくにドイツとの戦争を決意している。「アメリカは自衛のためドイツと戦う」旨は、国務長官コーデル・ハルが、駐米大使野村吉三郎に伝達している。
 そうなった場合、もし日本が日独伊三国同盟第三条を忠実に履行する意思ならば、日本はアメリカと戦争しなければならなくなる。↑の会談は、それに関連してのものだった。つまり、当時の日米関係は、「三国同盟第3条の中味を検討」するような、生ぬるいものでは無かった。



 また、加藤陽子氏は、こう↓とも記している。

三国同盟調印の2カ月間前(1940年7月)、外務省と陸海軍の担当者が参集し、何を話し合っていたかといえば「ドイツの勝利で第二次世界大戦が終了してしまった場合どうなるか」ということです。
会議には、大臣・次官ではなく課長級、軍で言えば佐官級の40歳前後の人が参集していましたが、彼らの頭には、日本がいまだ参戦もしていないうちに、ドイツの勝利で第二次世界大戦が終わってしまったら、ドイツが敗北させた宗主国(オランダやフランス)が持っていた植民地、つまり、東南アジアや太平洋の植民地が、ドイツに獲られてしまうという危機感だけがありました。
日本が警戒していたのは、ドイツでした。ドイツの東南アジア進出を牽制したいがための同盟締結だと言えます。陸海軍の軍人たちがいかにドイツ側を警戒していたか、その発言も残っています。

 これも間違い。というか、ほとんどフィクション。
 なぜなら、そんな話は、原書房『杉山メモ 参謀本部編』には無いし、戦史叢書にも無いし、近衛文麿の手記にも無いし、『大東亜戦争全史』にも無い。
 そのうち最も明確なのが近衛文麿の『三国同盟について』で、そこではドイツと同盟した目的を、「米国の参戦防止」と「対ソ親善関係の確立」としている。原書房『杉山メモ 参謀本部編』の資料解説には、「日独伊三国同盟の狙いは、洋の東西における世界新秩序建設のための相互協力にあった。しかし同時に松岡外相には雄大な外交戦略が秘められていた。それはソ連を三国同盟に同調させた上で、これを武器として米国を米大陸に封じ込めようとする対米国交調整を推し進め、そして支那事変を解決するというのである」とある。
 そうであるにも関わらず、「日本が警戒していたのは、ドイツでした」と決めつけるのは、間違っている。

 ただし、そういう類いの発言が、当時あったことはあった。1940年9月14日の松岡洋右が、そう。その概要は、『三国同盟交渉審議近衛首相覚書』から分かる↓(原書房『杉山メモ 参謀本部編』より部分引用)。

外相(松岡洋右)は「今最早日独伊と結ぶか、日独伊を蹴って英米の側に立つか日本としてハッキリした態度をきめなければならぬ時期に来てる
日独伊を前々内閣のやうに日独伊をアイマイにして独乙の提案を蹴った場合独乙は英を降し最悪の場合欧連邦を作り米と妥協し英蘭等欧連邦の植民地として日本に一指も染めさせぬ最悪の場合
併し物資との関係から云へば今日独伊同盟締結の結果アメリカとの間に最悪の場合
戦争の遂行国民生活上非常の困難 それを回避するには独伊とも英米に結ぶも手で全然不可能とは考へぬ 併し其為には支那事変は米の云ふ通り処理し東亜新秩序等の望はやめ少なくとも半世紀の間は英米に頭を下げるならいい
それで国民は承知するか 十万の英霊満足出来るか
且又仮に米の禁輸一時は物資に苦しむが前大戦の後でアンナ目に会ったのだから今度はドンナ目に会ふか解らぬ 況や蒋は抗日で無く侮日排日一層強くなる 中ブラリンではいかぬ 即ち米と提携は考えられぬ

 なのだが↑は、全体的な論旨としては、ドイツに対する警戒ではない。アメリカに対する反発であり、ドイツと手を組んでアメリカに対抗しようという主張だ。
 そして、松岡洋右が非常な反米親独だったのは明らかで、そういう発言は『杉山メモ』にも何カ所もある。しかし、松岡洋右が「独乙の提案を蹴った場合独乙は英を降し最悪の場合欧連邦を作り米と妥協し英蘭等欧連邦の植民地として日本に一指も染めさせぬ」などと発言したのは、おそらくその時だけだった。だからそれは、同盟への同意を渋る人々を説き伏せようとしての、その時限りの口車だったと解釈するのが妥当だろう。および、当時の人々はそうと察していたから、それを重視しなかったと解釈するのが。


 というところで、今回の話は、これでおしまい。

 それでなんだが、今回の記事は、確かに加藤陽子氏の批判ではある。
 なのだが、筆者が本当に言いたいのは、そうではない。それは、『歴史が専門である東大の学者先生ですら、間違いをしてしまう。それほどまでに、歴史とは難しいのだ』ということ。

 では、東大の学者先生ですら間違えるなら、いったい誰が書いた歴史なら正しいんだろうか? 誰のどの著作を信じれば良いんだろうか? 信じられるものなど存在するのだろうか?
 だから、「他人の言うことなど信用せず、自分で史料に当たり、研究して見ましょう」ということにはなる。なのだが、自分の解釈や判断こそ間違っている可能性がある。そうではないと、どうして分かるだろうか?

 というわけで、真実に至る道は険しい。他はともかく、少なくとも歴史に関しては。


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