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女の美学 ~炎に消えゆく願望と呪詛~


ちょっと物騒だが、嫌いな人が去っていくおまじない、というのがあるそうな。


ここでは具体的な方法論については触れないが、ググると掲載されているサイトが幾つかある。


そのうちの一つに「紙を人型にカットして燃やす」というのと「夜にキャンドルを灯して呪文を唱える」というのがあった。


想像するとなかなか恐ろしい姿である。


丑三つ時の藁人形に通ずる怖さがある。


言葉やデスノートに書くよりも何やら強力な感じがする。


浄化なのか、呪いなのか、願いなのかは分からないが、それほどまでに怒りに支配されて苦しいという気持ちは分かる。


人型や藁人形まではさすがに無いけれど、怒りを鎮めてスッキリしたくて「サヨナラ」の気持ちと共にその人の形跡あるモノを火にくべた経験、実はわたしにもある。


強い怒りや憎しみに近い感情の処理に戸惑っていたその時はそういう方法が波長的にも合っていたのかもしれない。


火にはそういうパワーがあるんだろう。


たしかに「火」という漢字がつく言葉は人間には刺激的であり、ちょっと付き合い方を誤るとその力がなんとなく「災い」と隣合わせな感じにもなる。


たとえば


火遊び

炎上

尻に火がつく

火中の栗を拾う

火の無いところに煙は立たぬ

飛んで火にいる夏の虫

火に油を注ぐ

嫉妬の炎を燃やす


などなど。



でもその一方で、炎にはリラックス効果もある。


キャンドルはリラックスの定番アイテムだし、キャンプファイア、焚き火のゆらゆらと揺れる炎にはざわつく心を鎮静させてくれる効果がある。


実際に「f分の一ゆらぎ」という自然界の癒し効果も検証されているのは有名な話だ。


キャンドルの炎を再現したLED照明が沢山あるように、人間の心にはそういう自然界のリズムに則った癒しが時たま必要なのだろう。


そういう効果も含めて考えてみると、呪文だとか人型だとかそういうリアルに呪い的なものは怖いけれども、炎の揺らぎと共に嫌いな人とやらを心の怒りの炎と共に昇華させていくのはそんなに悪いことでもないのかもしれない。


直接危害を加えるとかでもないし。


自分の中で天に昇っていく炎と共に自然界の揺らぎに心を委ね、浄化を願いきっちり燃やしきってしまえば案外スッキリしそうだ。


でも、縁が切れるように、くらいの「願い」ならまだいいけど、相手の不幸を祈るような「呪い」はやめた方がいい、と思う。


人を呪わば穴二つ、という。


自分に返ってくるかどうかは天のみぞ知ることだが、現実的に考えても人を呪ったり恨みを持ち続けるような人物になってしまうこと自体がヤバイ。


近づかない方がいい俗にトラブルメーカーといわれるような人もその手のタイプである。


そういう思考に囚われだすと、自分の身の回りの気の流れや運気が滞り、澱み、厄介な疫病神に好かれてしまう気がする。



ちなみに、嫌いな人が去っていくおまじないの他の方法には「水に流す」もあった。


嫌いな人の名前をトイレットペーパーに書いて流すと。


もし、自分の名前が書かれて流されているところを想像するとなんだかゾッとする。


実害ではないにしても何となく気持ち悪い。


知らないところで嫌われていても気づかないものだし、どうやっても嫌いな人というのはいるらしいのでその辺は防ぎようがないが


そういうことを考えると、自分の制御できる範囲においては人に恨まれるような言動にはなるべく気をつけようと改めて思ふ。





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